| Ⅰ 仙人庚申塚……札幌市北区あいの里4条2丁目。(2010/09/12) |
| Ⅱ 大祐山蔵王寺……小樽市星野町6-15。金峯山修験本宗北海道別院。(2015/07/25) |
| Ⅰ 仙人庚申塚……札幌市北区あいの里4条2丁目。(2010/09/12) |
| あいの里4条2丁目の交差点の南西の角に、煉瓦造りの祠があって、丸彫りの役行者の石像が祀られている。 かなり風化しているが、ふっくらした顔の役行者像である。 平成17年3月の札幌市北区役所の案内板「北区歴史と文化の八十八選・84仙人庚申塚」には次のように記されている。 この石像は、明治28年(1895年)に建立され、山岳信仰の開祖といわれる役行者をかたどっている。右手に錫杖(つえ)、左手には煩悩悪霊を打ち砕く金剛杵をもつ。台座には右から「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿が刻まれている。これは何事もつつしみ深くあらねばならないという庚申信仰の教えを表している。仙人の姿をした庚申塚はめずらしく民俗学上も貴重なものである。なお、この像は昭和60年(1985年)、東北約10メートルのところからここへ移された。 柳沢正幸氏によって寄進された祠堂内には、仙人庚申塚年代記が掲げられていて、建立者は岸本濱造氏と記されている。 札幌市北区役所のホームページ(2010/09/08)『みてきて北区』の歴史と文化、エピソード・北区の第8章記念碑、60篠路の野に脈打つ山岳信仰には、次のように紹介されている。 「仙人庚申塚」 悪い噂は「見ざる言わざる聞かざる」の三猿 篠路町拓北の道ばたに、ちっちゃな石像が雑草に見え隠れして建っていた。正確な場所は、ペケレット湖園前の通りを東へ700メートルほど進んだ辺りである。自然石に彫り込まれた像は、ところどころ欠けていて、いかにもみすぼらしそう。高さはわずか1メートル余り。石像は「役行者(えんのぎょうじゃ)」を表し、右手に錫杖(しゃくじょう)(ツエ)、左手に金剛杵(こんごうしょ)(キネ)を持つ。役行者は山岳信仰の開祖と言われる。そういえば、この石像の台座はなだらかな山を表し、上の方は険しい山の頂を型どっているようだ。法衣をまとった行者は、山伏よりもむしろ仙人の風ぼう。どうして、山岳信仰のシンボル像が篠路の平原に建てられたものだろうか。 白い姿の幽霊? 地元の古老は、この仙人像を「庚申(こうしん)さん」と呼ぶ。確かにこれはその昔、庶民の生活のよりどころに、「内地」では江戸期から盛んに建てられた「庚申塚」の一種に違いない。 仙人庚申塚が建ったのは明治28(1895)年。この地区の人々の間に弘法大師講という庶民信仰が起こったのも明治28(1895)年であれば、これまた鴻城小の前身とも考える寺子屋の教育場が建ったのも全く同年である。「明治28(1895)年という数字は決して偶然ではない。庚申さん建立の意味もこの数字で解けるような気がするんです」こう話すのは塚の近くに住む柳沢正幸さん(60)だ。つまり、寺子屋に通う村の子供の安全を願い通学路に庚申塚を建てた。建てたのは大師講の信者たちとの推論である。 同じく塚の近くの久米一男さん(70)は「昔、庚申のあるあたりには白い姿の幽霊が出たと親から聞かされた」と言うのだが、役行者は悪魔を払う呪術者でもあった。さらに仙人像の下の台座石には「見ざる言わざる聞かざる」の三猿が彫ってある。これは悪い噂に関わらず三猿主義を守って、何事もつつしみ深くあらねばならぬという庚申信仰の教えでもあった。 望郷と土着の証 篠路町拓北一体は主として徳島県人による開墾地帯である。このことに触れて庚申塚研究家の会田金吾さんは「徳島県は石像造りも、山岳信仰も盛んな所。開拓が軌道に乗りひと息ついたので、徳島出身者がふるさとを思いつつ篠路に土着するんだという証に、庚申塚を建てたものと思う。私が知る範囲では道内の仙人像は篠路だけ。極めて貴重です。」 (「広報さっぽろ北区版昭和51年8月号」掲載) ※ 昭和60(1985)年、造成工事に伴い約10メートル南西のところに移設されている。(平成19年3月加筆) また『さっぽろ文庫39・札幌の寺社』(北海道新聞社、1986年12月刊行、213~214ページ)には、大略、次のような説明がなされている。寺子屋に通う学童が、帰宅途中、女性の幽霊を見たという。その幽霊退治のために山岳信仰の仙人庚申塚を建てたという。以来、幽霊は出なくなったという。 |
| Ⅱ 大祐山蔵王寺……小樽市星野町6-15。金峯山修験本宗北海道別院。(2015/07/25) |
| 蔵王寺のホームページ(2013/04/03)、本尊の紹介に「富岡鉄斎書・役尊渡海の図」が掲載されていた。/本尊は役行者、金剛蔵王大権現。/平成20年9月5日より「金峯山龍王寺」の名称が、「大祐山蔵王寺」と変わりました。 当山蔵王寺は、眼下に石狩湾を一望し、手稲山の山すそに抱かれた、大自然を道場とする山岳宗教であり、金峯山修験本宗―修験道―の寺院であります。/修験道は、大自然の霊気の中に身をおいて、改めて自己を見つめ修行することによって、自然と一如の境地を目ざす、実修実験の宗教であります。/日本には、昔からお参りするだけで我々人間の罪、穢れが浄められるといわれる九品浄土があって、本山(奈良県吉野山)金峯山寺は、その一つで金峯山浄土といわれ、はるか奈良、平安の昔から人々の信仰を集めてまいりました。/当山は、その金峯山寺の別院となっております。 また蔵王寺のホームページ(2017/03/11)には、「脳天大神」について、次のように記されています。 昭和26年、当時の金峯山寺管長であった五條覚澄大僧正猊下が、新しい行場を開くために、蔵王堂の裏の谷間を下っていったところ、子供たちにいたずらされ、頭を割られた蛇が死んでいました。/子供たちをたしなめ、その蛇を近くの洞窟に安置し、回向を手向けて帰りますと、その夜、「われは蔵王権現の変化神・脳天大神( のうてんおおかみ )なり、先ほどの蛇は人々の苦しみを、あのような姿に変えて見せたのである。多くの人々の、特に頭の病や、悩み苦しみを救う為に、われを脳天大神として祭られたし。」という霊示をうけ、この地に、脳天大神を祭祀することとなったのです。/それ以来たくさんの人達が脳天大神の不思議をいただかれ、その御霊徳によって、この吉野の深い谷に多くの参拝者が一年中絶えることなく訪れるようになり、……(「脳天大神」は「のうてんさん」「のうてんだいじん」などと呼び親しまれているという。吉野の龍王院、脳天大神の由来である)/当山の脳天大神は北海道別院として、その御分霊をおまつりしております。/また、最近では小樽のパワースポットとしても人気を集めております。 境内の左手奥に蔵王寺の本堂があり、その右の建物には脳天大神が祀られている。 本堂には、中央に本尊の金剛蔵王大権現、向かって右に不動明王、左に役行者が祀られていた。木造の役行者は、めずらしい立像で、右手に錫杖、左手に経巻を持っていて、高下駄を履いている。表情は柔和で、笑みを浮かべているかのようだ。ご住職の話では、悟りを開いた晩年の役行者を表したものではないかとのことであった。江戸初期、400年ほど前に作られたものだとのことであった。 脳天大神は、巨石の台石の上に、脳天大神と彫られた巨石が祀られている。 ちなみに奈良・吉野の脳天大神・龍王院の役行者も立像である。 |