| 役行者を巡る【東京都】 |
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| 1博物館・美術館(Ⅰ東京国立博物館、Ⅱ龍子記念館) 2新宿区(放生寺) |
| 3文京区(護国寺) 4台東区(Ⅰひげ地蔵、Ⅱ小野照崎神社) |
| 5品川区(Ⅰ品川神社、Ⅱ品川寺、Ⅲ海雲寺) 6目黒区(瀧泉寺) |
| 7世田谷区(満願寺別院) 8板橋区(乗蓮寺) 9八王子市(有喜寺) |
| 10青梅市(愛宕山) 11西東京市(持宝院) 12奥多摩町(一石山神社) |
役行者を巡る【東京】
| 1 博物館・美術館(Ⅰ東京国立博物館、Ⅱ龍子記念館) |
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| Ⅰ 東京国立博物館…東京都台東区上野公園。(2008/09) 『役行者と修験道の世界』(大阪市立美術館編、毎日新聞社刊、1999年9月)には、東京国立博物館所蔵の「八幡大菩薩縁起断簡1巻」「大山寺縁起巻第二」が掲載されていて、役行者、前鬼、後鬼が描かれている。 たまたま東京国立博物館で「八幡大菩薩縁起断簡」が展示されていて、見る機会があった。展示の解説は以下の通りであった。 『八幡大菩薩縁起』(紙本着色・南北朝時代・14世紀) 「誉田宗廟(応神天皇陵)築造の経緯と応神天皇と同体とされる八幡神に対する崇拝を描いた「誉田宗廟縁起絵巻」と同じ系統の絵巻の残欠。誉田八幡宮本とは詞・絵ともに一致する。本巻は役行者と行基に関する話を収める」。 |
| Ⅱ 龍子記念館…東京都大田区中央4-2-1。(2016/03) 龍子記念館は、川端龍子が喜寿を記念し、代表作を展示、公開するために、自ら設計して昭和37年(1962)に建設したもので、平成3年(1991)11月3日に、大田区立の美術館としてオープンした。 所蔵作品の中に、行者道三部作がある。「使徒諸行讃」(1926)は、前鬼、後鬼を描いている。「一天護持」(1927)は蔵王権現を描いたものであり、「神変大菩薩」(1928)は、役行者を描いたものである。 |
| 2 新宿区(放生寺) |
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| 威盛院光松山放生寺…東京都新宿区西早稲田2-1-14。(2011/01) 高野山真言宗準別格本山。本尊は聖観世音菩薩。虫封じのお寺。 境内の「當山由緒沿革」には、次のように記されている。 「放生寺は寛永十八年(一六四一年)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。……/開創当寺から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、當山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。/このように當山は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内八十八ヶ所霊場第三十番札所、江戸三十三観世音第十五番札所として多くの人々の尊信を集めております。」 本堂正面の祠に役行者の石像が祀られているというが、見ることができなかった。聞けば、本堂の向かいに建立工事中のお堂が行者堂で、役行者像もそこに祀られるとのことであった。南無神変大菩薩と謹書し、中にぞうりが入っているお守りを授与しており、また絵馬もあって、足腰によいとされている。(2010/11) 坂東玉三郎の公演を見るため上京したついでに、再び放生寺に立ち寄った。神変大菩薩を祀った行者堂が完成していた。役行者は、等身大の青銅像で、右手に錫杖、左手に経巻を持った半眼の倚像である。【写真1】 |
| 3 文京区(護国寺) |
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| 神齢山悉地院護国寺…東京都文京区大塚5-40-1。(2010/03) 真言宗豊山派大本山。本尊は如意輪観世音菩薩。 「当山の創建は天和元年二月(一六八一年)、五代将軍徳川綱吉公が、その生母、桂昌院の発願により、上野国(群馬県)碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺の亮賢僧正を招き開山とし、幕府所属の高田薬園の地を賜い、堂宇を建立し、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、号を神齢山悉地院護国寺と称し、寺領三百石を賜ったことに始まる。翌二年、堂宇は完成した」(護国寺のHP)。 仁王門をくぐったところにある護国寺境内案内図には記されていないが、音羽富士といわれる富士塚がある。頂上には富士浅間神社が祀られている。また二合目辺りに石窟があって、石板がはめ込まれたようになっている。石板には昭和二年十月吉日の銘があって、雲に乗った人物(仙人か天女か)が線刻されている。本堂の案内の人に聞いたところ、役行者の石像が祀られていたが、現在どこにあるか分からないという。 本堂内には、左手の奧に不動明王と並んで、役小角(役行者、神変大菩薩)の木像が祀られていた。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。【写真2】 |
| 4 台東区(Ⅰひげ地蔵、Ⅱ小野照崎神社) |
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| Ⅰ ひげ地蔵…東京都台東区上野公園2-1。(2011/01) もともと上野公園は、伊勢の津藩上屋敷があったところで、ひげ地蔵は、津藩主藤堂家ゆかりのものだといわれている。 不忍池の弁天島にある弁天堂の右の渡廊下をくぐった右手、茶店・勝亭の右に、石橋でつながった小さな出島(聖天島)がある。鉄柵の扉が閉じられていて、中に入ることができない。正面に小さな社があるが、聖天を祀っているらしい。その左に、男根の形をした役行者の石像の後ろ姿が見える。勝亭から窓越しにやっと横からの石像が望まれるが、やはり詳細は分からない。特徴のある首の部分のくびれを見て取るのが精一杯である。勝亭の人の話では、鉄柵に沿って中に入る人も時に見られるとのことであった。(2006/12、2008/02) 望遠鏡で上野動物園側から見てみたが、樹木が邪魔になって、はっきり見えない。ちょうど鉄柵の中に入る人の姿が見えたので、中に入ってみることにした。 正面の小さな社の左にある役行者の石像を前から見ると、半肉彫り(衣を一体としてみれば丸彫り)で、右手に錫杖、左手に独鈷杵を持った立像であった。乗蓮寺の役行者像と同じ様相をしている。後ろ姿もよく似ている。なぜ後ろ向きなのか。上野東照宮に向かって立っているようだ。あるいは藤堂家の墓所を望んでいるのだろうか。【写真3】 ちなみに役行者の左には、頭部の欠けた、半肉彫りの「青面金剛あるいは歓喜天単身立像?」の石像が祀られている。また社の右には二荒山に関する石碑があり、さらに聖天島の一番右手には、御嶽山と記した石板があって、文久三年(1863)の銘がある。その裏には、天下泰平、国土安穏の銘と般若心経が刻まれている。修験道に関係するものが多いようだ。 上野東照宮(台東区上野公園九番)受付の門前にある台東区教育委員会の説明板には、次のように記されている。 「藤堂高虎(一五五六~一六三〇)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神をする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。あるいは寛永四年(一六二七)、宮祠を造営したのが創建ともいう。もとは『東照社』と称していたが、正保二年(一六四五)に宮号宣下があり、それ以後家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。/現在の社殿は、慶安四年(一六五一)、三代将軍家光が大規模に作り替えたもので、数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。……」 さらに東照宮本殿に向かう参道にある「東照宮略記」の説明板には、祭神を「徳川家康・徳川吉宗・徳川慶喜」と記したうえで、縁起について次のように記している。 「元和二年二月見舞いのため駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ三人一処に末永く魂鎮まるところを造って欲しいと遺言されたそこで高虎の屋敷地であるこの上野の山に寛永四年(一六二七)に本宮を造営したその後家光はこの建物に満足出来ず慶安四年現在の社殿を造営替えし、江戸の象徴とした」 |
| Ⅱ 小野照崎神社…東京都台東区下谷2-13-14。(2010/11) 「小野照崎神社のホームページの説明」 天明2年(1782)に築かれた富士塚「下谷坂本富士」。富士山に誰もが行けるわけではなかった時代、その霊験あらたかな姿を伝えるべく作られた直径は約15m、高さ約6mのミニチュアの富士山。一合目から順に十合目まで記されており、南無妙法と書かれた石碑や修験道の開祖である役小角の尊像も残る等、神仏習合の名残が見て取れます。先人の山守りの知恵によって今も当時の荘厳な姿を残しており、国の重要有形民俗文化財に指定されています。 毎年、夏越の大祓と富士山の開山に合わせた6月30日と7月1日の2日間に限り、一般の方々に開放されています。「不二(ふたつとない)」「不尽(つきることがない)」などがいわれとされる富士山。今もその霊験あらたかな神性を求め、多くの方々が富士塚に訪れます。 二合目の洞窟に、役行者の石像が祀られているようだ。富士塚登山が許されるのは、6月30日11時~7月1日の2日間だけで、入って見ることができなかった。 |
| 5 品川区(Ⅰ品川神社、Ⅱ品川寺、Ⅲ海雲寺) |
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| Ⅰ 品川神社富士塚…東京都品川区北品川3-7-15品川神社内。(2008/02) 「富士塚は、富士信仰の集団、富士講の人々が、富士山の遙拝場所として、あるいは実際の登山に代わる山として造った築山である」。品川富士塚は、明治2年に築造され、5年に再築、大正11年に現在地に移築された。 参道の階段を少し上がると、左手に富士塚の登り口がある。すぐ先に2合目の洞窟があって、役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。役行者は、高笑いをしているような明るい顔をしていて、珍しい。おそるおそる山頂に登り、反対側に下ると、芳葉岡富士浅間神社があった。【写真4】 |
| Ⅱ 海照山品川寺…東京都品川区南品川3-5-17。(2009/03) 真言宗醍醐派。本尊は水月観音菩薩と聖観世音菩薩。品川観音。 海雲寺の右隣。 境内の正面奥に、行者堂があって、精巧な役行者の青銅象が祀られていた。右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。 |
| Ⅲ 龍吟山海雲寺…東京都品川区南品川3-5-21。(2009/03) 曹洞宗。本尊は十一面観音菩薩。千躰荒神で有名。 品川寺の左隣。 山門を入ると、正面に千躰荒神堂がある。その左手の境内には、平成元年五月に建立された役行者の青銅像が祀られていた。右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。訪れた日は、千躰荒神祭で賑わっていた。 |
| 6 目黒区(瀧泉寺) |
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| 泰叡山瀧泉寺…東京都目黒区下目黒3-20-26。(2001/06、2011/10) 天台宗。目黒不動尊。日本三大不動。『関東三十六不動霊場』 開山は、大同三年(808年)、天台座主第三祖、慈覚大師円仁による。五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)のひとつ。江戸時代後期には富くじが行われ、湯島天神、谷中の感応寺とともに「江戸の三富」といわれた。 大本堂に向って、右側の石段を上がると石祠のお堂があって、「銅造役の行者倚像」が祀られている。「……この像は寛政8年(1796)の作で、総高142.2cm、坐高92.7cmです。やや痩せ形の神秘的な面相、均整のとれた体躯や手足の表現、法衣や袈裟の衣文のしわなどとても巧みで江戸時代の銅造彫刻として優れた遺品一つです。/表面は黒光りしており、これは鋳工の間でガラス銅と称される銅色です。頭巾を山高にかぶり、木の葉の肩衣をかけ、右手には錫杖を、左手には巻子を持っています。/また像の腹部、胸部、腕部等に刻銘があり、そこから願主の名や、神田に住んでいた鋳工太田駿河守藤原正義の制作であることがわかります」(目黒区教育委員会の説明板)。 役行者像は、下から見上げるように見ると、何か語りかけているような表情を見せてくれる。また堂内、役行者の後ろには、風化の進んだ前鬼、後鬼の石像が祀られている。石祠のお堂の前、右手に「奉納唐銅役行者芝口講中/寛政八年丙辰五月」の石柱があり、石祠の堂内には「神変祠整備工事/平成九年九月」とある。また石垣には「奉修優女坂土留石垣/享和元辛酉年初冬」の銘が刻んである。【写真5】 |
| 7 世田谷区(満願寺別院) |
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| 瀧轟山明王院満願寺別院…東京都世田谷区等々力1-22-47。(2008/02) 真言宗智山派。等々力不動尊。『関東三十六不動霊場』 役行者が不動の滝(利剣の滝、等々力の滝)、神変窟で修行し、霊場としたといわれる。役行者が刻したといわれる不動尊を本尊としている。 本堂左手、社務所の先に不動の滝へと下る「たきのみち」がある。少し下ると、右手に不動明王が祀ってあり、その左に役行者神変窟がある。いくぶん風化した役行者の石像が祀られている。 |
| 8 板橋区(乗蓮寺) |
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| 赤塚山慶学院乗蓮寺…東京都板橋区赤塚5-28-3。(2010/11) 浄土宗。本尊は阿弥陀如来。東京大仏。 「乗蓮寺/御本尊は阿弥陀如来。浄土宗で赤塚山慶学院と称しています。応永年間(一三九四~一四二八)に了賢無的が山中村(現仲町)で人々に教化したことに始まり、後に板橋の中宿(現仲宿)に移転したと伝えられています。/天正十九年(一五九一)に徳川家康から十石の朱印地を与えられて以来、代々の将軍から朱印状を与えられました。……/高速道路の建設にともなう国道十七号線の拡幅工事により、昭和四六年から七年の歳月をかけて現在の地に移転しましたが、その際に天災戦災等の無縁仏の供養や恒久平和を祈願して青銅製の東京大仏が建立されました。/境内には、板橋の領主板橋信濃守忠康の墓や天保飢饉供養塔、藤堂家ゆかりの石像があります。」(板橋区教育委員会の説明板) 境内に伊勢の津藩主藤堂家下屋敷から移された石像があって、そのうちの一つが役行者(小角)像である。それらの石像は、すべて近代的で、表情が生き生きとしていて、すばらしいものである。役行者像は、等身大の丸彫りの石像で、右手に錫杖、左手に独鈷杵を持った立像である。上野公園の聖天島(弁天島の出島)に祀られている役行者の石像よりも大きいが、よく似ていて、それを模して、制作されたもののように思われる。どちらも藤堂家ゆかりのものだという。【写真6】 乗蓮寺のホームページ 「旧藤堂家染井屋敷石造物」 境内にある石造物のいくつかは、現在の豊島区駒込付近に所在していた津藩藤堂家・江戸下屋敷(染井屋敷)に置かれていました。これらは、文政元年(1818)に作成された「藤堂和泉守殿染井屋敷図」に、呼称や特徴などが付されて描かれ、天保13年(1842)成立の『虎丘堂集書』に、「不思議な形」「形異状」な珍品であると記録されるなど、当時から特色ある石造物として知られていました。(中略) 戦後、これらは「鉄拐堂」に隣接する個人宅に置かれていましたが、昭和42年に、当時板橋区仲宿に所在していた乗蓮寺に移されました。そして、昭和46年からの当寺の赤塚移転に伴い、現在の場所に移設されました。 なお、現在当寺に現存している旧藤堂家染井屋敷石造物は「鉄拐仙人」「奪衣婆(婆々)」「天邪鬼(がまんの鬼)」「恵比寿」・「大黒」「文殊菩薩」・「布袋尊」「役行者(小角)」の石像、計8点です。 |
| 9 八王子市(有喜寺) |
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| 高尾山薬王院有喜寺…東京都八王子市高尾町2177。(1997/11、2010/11) 真言宗智山派。本尊は薬師如来・飯縄大権現・不動明王。 平間寺(川崎大師)、成田山新勝寺とともに、真言宗智山派の関東三大本山のひとつ。『関東三十六不動霊場』。 薬王院飯縄権現堂の説明板には、由緒について次のように記されている。 「寺の建立は、薬王院縁起によれば、天平一六年(七四四)行基が勅命を奉じて、本尊薬師如来を安置したのに始まるとありますが、後の永和年間(一三七五~七九)に沙門俊源が飯縄の神を安置して中興し、これにより高尾山の信仰は世に広められたと伝えられています……」。 薬王院入口の楼門、四天王門の手前に「高尾山中興開山俊源大徳」の等身大の石像が祀られている。右手に錫杖、左手に独鈷を持つ倚像で、高下駄を履いた山伏姿をしている。 ケーブルカー高尾山駅から薬王院への途中、浄心門をくぐると、左手に神変堂がある。堂内に役行者が祀られており、堂の前には、前鬼、後鬼の丸彫りの石像が祀られている。また役行者の説明板とは別に、前鬼、後鬼の詳細な説明板もある。 「神変堂/神変大菩薩は又の名を役の小角或は/役の行者と申され千三百年程前の山岳修験/道(山伏)の開祖であります。/役の行者は日本全国の霊山、霊場に修行し/数々の不思議なご霊験を残されました。/ここ高尾山においても諸願成就の御誓願を/たてられて御尊像がこのお堂に安置され、/多くの御信徒からの信仰を集めております。/「南無神変大菩薩」とお唱えし、足腰心身の健康をお願いしましょう。/高尾山薬王院」 堂内の役行者像は暗くてよく分からなかったが、厨子の中に納められているように見えた。 |
| 10 青梅市(愛宕山) |
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| 愛宕山(584m)…東京都青梅市柚木町1。(2016/05) 【参照:山歩き「日の出山」】 愛宕神社奥宮の左手の小高いところに、役行者のどっしりとした石像が祀られている。両手で経巻を開いている倚像で、極めて珍しい。錫杖は右手の後ろに立てかけられている。台座には「埜(玉)村」、背面には「慶應元乙丑年(1865)十一月/施主埜村勝右エ門」と銘が刻まれている。堂々とした様子の役行者像は、よく見られるような痩身ではなく、また落ち着いた、そして円熟した表情をしており、安心感を与える。 下って行くと、例えば「十六丁目/二俣尾/平岡惣吉」「慶應二寅六月日」というように、町石が現れる。また山内新四国霊場のりっぱな石塔が祀られていて、台座に「玉」と銘が刻まれたものもみられる。役行者の台座の「玉」と同じものである。 麓には愛宕神社があり、また真言宗豊山派の愛宕山明王院即清寺(東京都青梅市柚木町1-4-1)もある。愛宕神社奥宮、町石などは、愛宕神社と関係するものであり、役行者、山内新四国霊場などは即清寺と関係するものであろう。【写真7】 |
| 11 西東京市(持宝院) |
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| 光栄山持宝院…西東京市向台町6-4-17。(2011/10) 真言宗醍醐派。本尊は不動尊。 石柱の門を入ると、狛犬が座している。左手にアパートがあり、右手が持宝院の寺務所、不動堂とつながっている。正面の奥は、こんもりと盛り土されていて、樹木の間に、様々な石仏が祀られている。その中心の石窟に三体がほぼ同じ大きさの役行者、前鬼、後鬼の丸彫りの石像が祀られていて、役行者は右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。その表情は、目をしっかり開き、口を真横に閉じ、端正な姿をしている。【写真8】 石仏群の中に成田山の石柱があって、明治十年九月の銘があるが、その中で最も古い年代である。不動堂には、厨子があり、その前にいくつかの仏像が祀られていて、役行者の写真も祀られていた。厨子の中にも、それらの仏像が納められているのかも知れない。 |
| 12 奥多摩町(一石山神社) |
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| 一石山神社…東京都西多摩郡奥多摩町日原。(2011/05) 日原鍾乳洞向かいにある「一石山神社の由緒」によれば、 「当社の鎮座起源は第四十二代文武天皇の四年庚子四月八日役の行者の草創 第五十一代平城天皇の大同四年八月二十四日弘法大師の中興 第五十五代文徳天皇の御宇天安元年慈覚大師の再興と伝えられ 古来から一石山大権現と称し 山岳修験者の御祈祷の場として広く各地に知られ 対岸の鍾乳洞は一石山の御窟と言われ御神体として崇敬されてきた……」という。さらに後には、上野東叡山寛永寺の所属となり、また付近一帯は輪王寺宮家の所領であったが、明治以降、東叡山の所属をはなれ、宮家からは領地を寄進され、社号を一石山神社と改め、昭和五年に社殿が再建されたという。 日原鍾乳洞入口の「鍾乳洞由来」によれば、「……鍾乳洞とは明治以降の呼称で、それまでは『一石山』又は、『一石山の御岩屋』といわれていた。この開基は役の行者の草創弘法大師の中興、慈覚大師の再興とみえ、その真偽は別として江戸時代は東叡山・輪王寺宮新(ママ)王の支配下であり、江戸時代の初期から山岳宗教の修験者を中心として参詣者が陸続し、この案内に松明を使っていた。本来、乳白色であるべき鍾乳石は、すべて、黒曜化しているのである」。 |