| 役行者を巡る【神奈川県】 |
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| 1横浜市(延命院) 2藤沢市(江ノ島) 3厚木市(Ⅰ長谷寺 Ⅱ白山神社) |
| 4伊勢原市(日向薬師) 5箱根町(箱根神社) 6湯河原町(湯河原温泉) |
| 7愛川町(経ヶ岳・経石) 8秦野市(行者ヶ岳・行者岳) |
役行者を巡る(神奈川)
| 1 横浜市(延命院) |
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| 成田山延命院…横浜市西区宮崎町30-1。(2011/12) 真言宗智山派。成田山横浜別院。野毛山不動尊。関東三十六不動霊場。 横浜新栄講、野毛山水行堂に向かい、「成田山横浜新栄講事務所」の先を右に向かう。 大日如来を祀ったお堂の右に、鉄柵で仕切られた洞窟があって、役行者の石像が祀られていた。 役行者の石像は丸彫りで、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。目を黒く塗っているので、本来の表情が分かりづらいのが残念だ。【写真1】 |
| 2 藤沢市(江ノ島) |
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| 江の島(えのしま)は、神奈川県藤沢市江の島に位置する。(2010/03) 江島神社のホームページには、由緒について次のように記されていた。 「社伝によると、欽明天皇十三年(552年)に、『……神宣により詔して宮を島南の竜穴に建てられ一歳二度の祭祀この時に始まる』とあります。これは、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社の始まりであることが記されてます。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。/江島神社は、当時は、海運、漁業、交通の守護神として祀られ、御窟を本宮といい、奥津宮を本宮御旅所、中津宮を上の宮、辺津宮を下の宮と呼んでいました。その後、文武天皇4年(700年)に、役小角という修験者がこの御窟に参籠して神感を受け、泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、次々に行を練り、高い御神徳を仰いだと伝えられています」。 また『江の島縁起』によれば、役行者は、讒言によって文武3年(699)、伊豆大島に流罪になったが、翌年4月に江の島に来て、洞窟に籠もって修行したという。 江島神社の宝物の中には、楠製の役行者像があって、役小角自作だといわれている。社務所で聞いたところ、現在は、役行者像を社務所が保管していて、公開していないという。 第一岩屋には、数多くの石造が祀られているが、その中に役小角の石像もある。半浮き彫りで、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像であるが、風化が甚だしい。岩屋には、石造の写真の一覧が展示されていて、役行者像を尊名不詳としているが、形態的な様子などは、その写真の方が、石像よりも分かりやすい。 |
| 3 厚木市(Ⅰ長谷寺 Ⅱ白山神社) |
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| Ⅰ 飯上山長谷寺…神奈川県厚木市飯山5605。(2014/11) 高野山真言宗。本尊は十一面観世音菩薩。飯山観音。開基は行基、神亀二年(七二五)。板東三十三ヶ所観音霊場第六番札所。 大山、丹沢が近く、昔は修験道の信仰があったのであろう、本堂内の左に、不動明王などとともに、役行者の木像が祀られている。役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。後世にであろうか、彩色を施し、目鼻などを描いたのであろう。少々残念な顔つきになってしまっている。もともとは、もっとしっかりした表情をしていたと思われる。【写真2】 |
| Ⅱ 白山神社…神奈川県厚木市飯山。(2014/11) 白山池の後ろに石碑と神変大菩薩が祀られている。石碑には「勅諡神變大菩薩」の銘があり、役行者千百遠忌のときのものである。 役行者の石像は倚像であって、膝の上に両腕を置いた様子をしているが、両手が破損している。顔も破損したらしく、セメントのようなもので造られている。 |
| 4 伊勢原市(日向薬師) |
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| 日向山宝城坊日向薬師…神奈川県伊勢原市日向1644。(2014/11) 高野山真言宗。薬師瑠璃光如来。日本三大薬師。武相四大薬師。 「当山は奈良時代初頭の霊亀2年(西暦716年)に、僧行基により開山されました。僧行基が熊野を旅していた際、薬師如来のお告げにより、相模国のこの地(現在の神奈川県伊勢原市)に、日向山霊山寺(ひなたさんりょうぜんじ)を開山した、と伝えられています。」(日向薬師のホームページ、2014/11) 本堂(薬師堂)は、平成の大修理中で、宝殿に役行者が安置されていた。宝殿の中、右側に薬師如来と日光菩薩・月光菩薩が祀られていて、月光菩薩の左に、弘法大師と行基菩薩が並んで祀られている。そして左の弘法大師の後ろに、役行者が祀られていた。弘法大師、行基菩薩、役行者は、もともとは本堂に祀られているものである。 役行者像は、寺の人の話では、600年前、室町時代に造られた木像だとのことであった。行基の親は百済の人で、役行者の親は新羅の人だと説明してくれた。 役行者は、等身大の倚像で、右手の錫杖、左手に経巻を持つ姿をしている。役行者は、彫りの深い、力強い顔つきで、目はガラスの玉眼で、きりっとしている。鼻は高く、口はかすかに開いて歯をのぞかせているが、迷いのない表情で、人に安心感を与える様子であった。 |
| 5 箱根町(箱根神社) |
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| 箱根神社…神奈川県足柄下郡箱根町元箱根80-1。(2014/06) 箱根神社宝物殿の常設展示室に、役行者と前鬼、後鬼の木像が祀られていた。かつて金剛王院の役行者堂に祀られていたものである。 役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。ただし役行者は、高下駄を履いておらず、素足である。その顔の表情は、極めて精緻に、写実的に彫られており、今にもなにか語りかけてきそうな気配すらする。 説明板には、次のように記されていた。 【役行者像/前鬼・後鬼像】 室町時代 役行者は「木造倚像」であるが、膝及び手足等が寄木造である。江戸時代の作と伝えられ、金剛王院の「役行者堂」に「前鬼・後鬼像」と共に安置されていたものである。頭部には頭巾を頂き、垂髪とし、袈裟をきた修験独特の服装を着し、裸足であるのが大きな特徴である。 役行者は役小角といい、奈良時代に大和の葛城山に居住し、神通力を持った験者、呪術者であり、文武三年(六九九)、世の中を惑わす妖言をなしたという理由で、朝廷から伊豆の地に流され、修験道の開祖と仰がれた。 また、役小角に仕えた前鬼と後鬼の二像であるが、共に大和国生駒山に住し、男鬼を前鬼、女鬼を後鬼とし、役行者に追従させたものといわれる。 説明文の文頭には「室町時代」と記されているが、文中では「江戸時代」の作と伝えられていると記されている。 別当寺の金剛王院東福寺が関東総鎮守箱根大権現の中核であったが、明治の神仏分離令によって、金剛王院東福寺は廃寺とされ、箱根大権現が箱根神社に改称された。宝物殿の前に「金剛王院東福寺の跡」の石碑がある。 |
| 6 湯河原町(湯河原温泉・子之神社) |
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| 湯河原温泉…神奈川県足柄下郡湯河原町宮上。(2014/11) 「WEBゆがわら」(湯河原温泉観光協会、2012/05)によれば、湯河原温泉の発見には「恩をかえしたたぬき」「役行者による伝説」「薬師の湯由来説」「弘法大師発見説」「二見加賀之助重行による発見説」などの伝承が伝えられているという。 「役行者による伝説」は以下の通りである。 大和の国・葛城村の役行者(役小角)は、あまりに不思議な言行をするので、その頃の宗教界を刺激し、ついに勅命によって、文武天皇庚子4年、伊豆の国・大島に罪人として遠流しになった。/しかし、ここでも少しも変わることなく彼の神通力は続けられ、ある時などは大島と富士山の間を、一夜のうちに鳥のように飛んで、往復したという怪奇な物語も残っている。/さて、彼が大島に流される途中のこと、紫の雲がたなびく伊豆山権現の山をはるかに拝し、ここはただならぬ霊所であるとしてしばらくここにとどまり、同山の第4祖となった。/この頃、彼は湯河原の奥地にもしばしば足をすすめ、湯河原の渓谷の西方にある、「池峯」と呼ばれる山で、修行を重ねていた。(この池峯は、別名「役行者」とよばれ、昔は役行者が自分の姿を自分で刻んだという石の像が一基、草むらの中に建てられていた)/修行の日を重ねたある日のこと、彼は霊感によって、山の麓の渓谷に温泉が湧いていることをしった。それから彼は、しばしば山を降りてきては、身を清めたという。/湯河原温泉のそもそもの始めは、こうして役行者によって発見されたという。 |
| 子之神社…神奈川県足柄下郡湯河原町福浦129。子の神さま。 また子之神社の由緒(ホームページ)には次のように記されている。 遙か太古の昔、大海原の彼方から、龍王、妃、王子の三柱の神々が、荒藺乃崎(現在の真鶴岬)に御船に乗られて御出でになり、当地を開拓されたと伝えられています。その後、文武天皇4年(西暦700)、役行者と共に、当地を訪れた御杖代・穂積濃美麻呂卿が、師である役行者と共に、陰陽の秘法を以て、金剛蔵王権現、弁財天、子守大明神をお祀りしたのが当神社の創祀であり、その折に、当地に「霊妙なる薬湯」を見出したのが、現在の湯河原温泉の始まりと伝えられています。 |
| 7 愛川町(経ヶ岳・経石) |
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| 経ヶ岳(633.1m)…神奈川県厚木市、愛甲郡愛川町、清川村。(2014/11) 経ヶ岳の西に、「経石」(神奈川県愛甲郡愛川町、清川村)がある。一説では、役行者が華厳経を納めたからだという。また弘法大師が経を納めたからだという。経石のある山だということが、「経ヶ岳」の名前の由来だという。華厳経を納めたことから、「華厳山」(けごんざん)ともいう。(参照【山歩き】仏果山・経ヶ岳) |
| 8 秦野市(行者ヶ岳・行者岳) |
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| 行者ヶ岳(行者岳)(1180m)…神奈川県秦野市丹沢寺山、戸川。(2005/05) 行者岳。丹沢山塊の表尾根、政次郎ノ頭(1209m)と烏尾山(1136m)の間にある。かつて行者ヶ岳山頂に、役行者の石像が祀られていたという。(参照【山歩き】丹沢山) 行者岳の名は、永禄十三年(1570)、ここに役行者の石像が祀られたことに由来するという。 現在は、役行者像が線刻された石碑が祀られている(秦野市観光協会、尊仏山荘のHP)。 (資料) 一九六三(昭和三十八)年一月十八日、新聞各紙の報道が丹沢研究者を驚かせた。日向山伏の峰入を記した「峯中記略控」が発見されたことを伝えるものだった。 「山伏たちがコースを開く、山王中の小沢教諭 丹沢の古い資料を発見」との見出しで神奈川版のトップで紹介した朝日新聞は、発見者の話として「県下で初めての資料と思われる。丹沢の歴史を知る基礎資料として、さらに調査していきたい」と報じた。 神奈川新聞は「見つかった峯中記は口伝されたものを江戸時代になって略記したものだが、丹沢大山が千二、三百年から山伏によって開拓されたことは明らかで、地名の起源もすべてこれに関係があり、この種の資料の見つかったのはまったく初めて」と掲載した。 行者岳には、かつて役行者の石像が祭られていた。 写真のうち一枚は、秦野山岳会の漆原俊氏が一九三八(昭和十三)年に撮影した石像。高さ二十六センチ、幅二十九センチで、裏には「大泉房尭真、永禄十三年庚三月十日、権大僧都法印」と刻まれていた。この石像は昭和十五年ころまであったという。 中津川の八菅(はすげ)修験の末裔である千葉政晴氏が一九七八(昭和五十三)年十月、役行者の石像を再建した。しかし、この石像も三年ほどして行方不明となってしまった。 おくの・ゆきみち 大正10年生まれ。戦前から丹沢を歩き続け、丹沢ガイドブック、「丹沢山塊」などを執筆。丹沢への活動で環境庁長官賞、横浜市体育功労賞を受賞。川崎市川崎区。横浜山岳会会員。 |