役行者を巡る【石川】

役行者を巡る【石川県】
石動山行者堂…石川県鹿島郡中能登町石動山。(2011/08)
 行者堂の「……建物は、明治7年に最勝講村が19円で買い取り、天神社拝殿として守り伝えてきた。拝殿の改築(昭和63年)を機に解体し、平成元年に元の位置に移築、復元された」(石川県中能登町の「石動山」パンフレット)。

 「行者堂」についての中能登町教育委員会(平成二年六月)の説明板によれば、以下の通りである。
 行者堂
 この堂は、七世紀後半の山岳修験者『役小角』を祀っていた堂である。/小角は、「役行者」とも呼ばれ、修験道の開祖として崇拝されている。大和国(奈良県)に生まれ、葛城山で修行ののち種々の呪術を感得し、虚空飛行など奇跡として伝えられるところも多い。当石動山へは霊亀二年(七一六)に登山したと古縁起に記す。行者堂は講堂とともに伽藍の中では重要な位置にあるが、現建物は、天正の戦火で焼失後、江戸時代初期における石動山復興の一環として、一八世紀のごく始め頃に再建されたと考えられる。嘉永六年(一八五三)能登の沿岸警備巡見のおり、時の藩主前田斉泰公もこの堂に参詣している。明治初年の神仏分離令によって石動山関係の数多くの建物や宝物が離散したが、幸いにもこの堂は、鹿島町最勝講の天神社拝殿として存続してきた。このたび、地元氏子の理解を得て旧位置に復元し、永久保存の措置がとられた意義は大きい。

 石動山資料館で聞いたところ、内部には何もなくて、役行者は祀られていないとのことであった。

 行者堂の内部にかつての「行者堂跡」の説明板があった。鹿島町教育委員会(昭和六十一年三月)によるもので、次の通りである。
 行者堂跡
 この堂には、修験道の開祖、役小角を祀ったといわれる。/(中略)/この堂は、現在、鹿島町最勝講天神社拝殿として現存する。/ここに祀られたと言われる役小角とは、大和国葛城山で、藤の皮を着、花の汁をすって三十年にわたり孔雀明王の呪を誦えて修行に専念し、鬼神をを使役する力、邪神を縛る力、空を飛行する力を体得した修験者であり、呪術師として崇められている。石動山古縁起には、霊亀二年(七一六)に石動山に登り、求聞持頭巾法の行法を行ったとある。

 なお石動山の由緒については、以下の通りである。
 「石動山に石動彦神がまつられ、伊須流岐比古神社が建立されたのは、いまから一千年以上も前のことである。地すべりもあって、山全体が神として畏れ、崇められたものと思われる。その後、鎌倉時代には、虚空蔵菩薩を本地とする大宮権現を中心に、五社権現(大宮・白山宮・梅宮・火宮・剣宮)が山内にまつられるようになった。/石動山の開山は、崇神六年方道仙人とも、養老元年泰澄大師とも伝えられ、鎌倉時代には石動寺、室町時代末期ごろから天平寺ともよばれた。最盛期の中世には、三百六十余りの院坊と、約三千人の衆徒を擁したと伝えられ、……江戸中期には勅願寺として七ヶ国知識米勧進が認められ、同時に衆徒らは庶民に祈祷や薬を施し、石動山信仰は諸国に広まった。/こうした石動山も、明治元年(一八六八)に神仏分離令が発せられると、院坊の関係者が次々と山を去り、一山瓦解の運命をたどった」(林道石動山2号線の起点にある「石動山の歴史」についての説明板)。
 「石動山は、能登半島の基部、石川県と富山県の県境にある標高五百六十五メートルの山で、古代以来近世に至るまで山岳信仰の道場として、消長を遂げた地である。平安時代末期、室町時代、江戸時代後期には、それぞれ白山信仰勢力、能登守護畠山氏、金沢藩主前田氏との関係が深く、山内には多数の堂塔が建立されていた。……」(林道石動山2号線、旧参道入口にある「史跡・石動山全体案内図」の説明板)。