| 役行者を巡る【長野県】 |
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| 1 長野市 ➀極意・戸隠神社 ②ブランド薬師 |
| 2 岡谷市 ➀堂山の石造物群 |
| 3 小諸市 ➀高峯神社(高峯山山頂) |
| 4 伊那市 ➀駒ヶ嶽神社里宮 ②梅庵 |
| 5 飯山市 ➀小菅神社[⑴小菅神社奧社、⑵小菅神社里宮] |
| 6 茅野市 ➀役行者越え・御座岩 |
| 7 小県郡 ➀田沢温泉(温月庵薬師堂) |
| 8 諏訪郡 ➀宝光院 ②大岩不動尊の役行者 |
| 9 上伊那郡 ➀八乙女の役行者 ②津島神社の役行者 |
| 10 木曽郡 ➀御嶽山三室山神社、②十二大権現・優覚霊神場 |
| 11 東筑摩郡 ➀布光山福満 |
| 12 写真一覧 |
| 【参照】 ➀苗場山・伊米神社奥の院は【新潟県】、 ②恵那山・行者越は【岐阜県】を参照。 |
| 1 長野市 |
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| ➀ 極意……長野県長野市戸隠3354。(2011/07) 極意は、信州・戸隠山の宿坊&そば処で、2011年7月に戸隠神社五社を参拝し、宿泊した。 極意のホームページ「戸隠の歴史」で、役行者との関係にも触れていますので、紹介します。 信州戸隠山(とがくしさん)の開山は、天岩戸神話に由来し、天手力男命が天岩戸を投げ隠した地であり、その後、考元天皇5年(前207)命の子孫、阿智族に依り先住の九頭龍神と共に祀られたと伝えています。また、役行者が開祖で、嘉祥2年(849)学問行者が入山し、先住の九頭龍神を山の守護神として岩戸で封じ、戸隠寺を建て自ら別当となったものと伝えられています。時代は下って平安時代末。戸隠は修験道の名道場として、都にまでその名が知られました。神仏が習合されたこの頃。戸隠は戸隠山顕光寺といい比叡山延暦寺末寺で「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」といわれる程に栄えました。やがて、修道院は全国的に衰え、戸隠では天合派、真言派の争いや戦国期の上杉、武田の争いにも巻きこまれ壊滅的な打撃を受け、すっかり衰退してしまいました。江戸時代に入り、戸隠は徳川家康公に手厚く保護され、守護不入、一千石の朱印状を賜わり東叡山寛永寺の末寺となりました。今までの修験道とは切り離され、農業、水の神としての性格が一層強まり、山中は門前町に整備されて奥社の杉並木も植えられました。その後関東、中部、北陸を中心に戸隠講も生まれ、広くその信仰をあつめました。明治は、奈良時代以後一千年に及んだ我が国の神仏を分離し、戸隠では他に類をみない程の徹底的な拝仏毀釈が行われ衆僧は還俗して神官となり、戸隠神社となりました。戸隠神社の御祭神は、天手力男命、九頭龍大神(奥社)天八意思兼命(中社)天表春命(宝光社)天鈿女命(日之御子社)です。 戸隠山(戸隠神社)の神官のことを特に聚長と呼びます。 *宿坊極意の歴史については、極意のHPを参照して下さい。 |
| ② ブランド薬師……長野県長野市浅川一ノ瀬。(2011/07) 薬山(689m)の南登山口に「ブランド薬師公園」がある。八櫛神社の鳥居をくぐり、石段を上がると、右手に役行者の石像に出会う。 半肉彫りの役行者は、右手に錫杖を持ち、左手に経巻を持った立像で、「開山役行者」と銘が刻まれている。少し下から見上げると、その顔の表情は、笑みを浮かべ、優しく出迎え、また慈悲深く見守るかのようである。 「この公園のシンボルである八櫛神社は大同二年(八〇七年)創建と伝えられ……祭神は少彦名命で……本尊(薬師如来)を善光寺光明院に預け、縁日に堂に上げて信者に礼拝させるなど、明治まで神仏混在が続いた。弘化四年(一八四七年)の善光寺地震の際、薬師堂は本尊とともに、下の浅川に崩落し壊滅したが、文久元年(一八六一年)……現在の堂が再建された。……明治八年(一八七五年)、八櫛神社として県へ届出が出された。この時、堂は真言宗雲叡山北郷寺龍王院だったと書かれている。……ブランド薬師の語源は、垂直の岩に穴を開け、三本の材木を打ち込み、そこに懸崖造りの社殿を建てたため、堂が揺れやすいことからブラン堂の名が生まれたといわれる。……昭和六十三年には岩場の十三仏を現在地に移転し、鳥居も度々新築された。……」(長野市によるブランド薬師公園の説明板)【写真1】 |
| 2 岡谷市 |
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| ➀ 堂山の石造物群…岡谷市川岸東4-14。(2010/08) ホテルで川岸駅前の案内板の写真を見ると、堂山の石造物群が記されていた。川岸駅の南になる。 JR飯田線川岸駅前の県道14号線を南へ約1km。信号の一つ手前の道を東へ入る。すぐ左手に堂山への取付があって、上ると、「堂山の石造物群」がある。 標柱には、次のように記されている。 「この堂山には古く阿弥陀堂があり、天文年中(一五三二~)昌福寺に移されたと伝えられている。石造物は県道沿いの斜面頂上近くにある。高さ二メートル余りの御嶽山座王大権現の石碑は『施主当村中』とあり、文化六年(一八〇九)の建立である。このほか錫杖を左手に持ち、高下駄を履いた役行者、猪に乗った摩利支天、不動明王などみごとな石像が見られる。(以下略)」 役行者の石像は、丸彫りで、左手に錫杖を持ち、高下駄を履いた立像で、丸坊主頭をしている。袈裟衣を着ているのも珍しい。【写真2】 |
| 3 小諸市 |
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| ➀ 高峯神社…長野県小諸市大字菱平。(2011/07) 高峯山(2106m)山頂の高峯神社に、役行者が祀られている。 2003年、山頂までスノーシュウで登ったが、高峯神社に役行者が祀られているとは思わなかったので、残念ながら確認しなかった。 2011年に再び高峯山に登った。山頂のすぐ南に、高峯神社の祠があって、貴船大神、……役之行者(小角)等が御祭神として祀られている。また役之小角によって開山されたとも記されている。高峯神社は、平安朝時代に大室神社(諸区産土神社)の奥宮として建立されたという。(山頂の高峯神社御由緒) |
| 4 伊那市 |
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| ➀ 駒ヶ嶽神社里宮……長野県伊那市荒井内の萱。(2010/08) 西駒ヶ岳(木曽駒ヶ岳)にある駒ヶ岳神社の里宮。本殿の内部、左右に役行者の木像が祀られていた。 右の木像は、右足を上げた半跏像で、右手に錫杖、左手に経巻を持っている。 左側には、上下に二体の役行者が祀られている。上段の役行者像も右足を上げた半跏像で、右手に錫杖、左手に経巻を持っている。かなり損傷が激しい。顔は細面で、玉眼である。下段の役行者像は、比較的に新しい、小ぶりの役行者像で、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。 境内には、「行者そば発祥の地」の石碑をはじめとして、その由来を記した説明板などがある。 伊那市商工観光課の「信州そば発祥の地の由来」説明板には、次のように記されている。 今からおよそ一三〇〇年の昔修験道(密教宗教の一つ)の開祖として知られる呪術を修た高名な僧役小角という人が西駒ヶ岳に登り修行したといわれております 役小角は全国各地に霊山を開き山岳信仰を広めた行者の元祖といわれ、宗派確立に向けた最後の修行の場として信濃国は西駒ヶ岳をえらび東山道を通って小黒川沿い駒ヶ岳に登山したのです 途中立ち寄った小さな部落、この内の萱の里人たちにお世話になったお礼にと一握りの「そば」の種を手渡されたのです 内の萱の里人たちは役小角からもらった一握の「そば」の種を大事に育て「行者そば」と呼んでおりました やがて信濃国も山岳信仰の広がりと共に、各地に霊山が開かれ信仰の場となった。戸隠などをはじめ霊山のふもとの人里に、この内の萱で収穫された「行者そば」の種が行者たちの手によって運ばれ、信濃国全域に広がっていったのです。それが今「信州そば」といわれ全国的有名なそばと発展したのです また「行者そば発祥の由来」と記された石碑には次のように記されている。 遠く奈良時代の始め、修験道を確立した役小角(えんのおずぬ)が最後の修行の場として、駒ヶ岳に登る途中、内ノ萱の村人の温かいもてなしの礼にと山間の高冷地でも実る一握りのそばの種をおいて行ったという。やがて、数百年を経てこの行者そばは、信州一円に拡がって行ったと伝えられている。 さらに「行者そば」の案内標柱には、次のように記されている。 奈良時代の始め、修験道の開祖役小角は駒ヶ岳登山の途中、ここ内の萱に立ち寄り村人に快いもてなしを受けました。小角はそのお礼として蕎麦の実を置いていきました。これが信州蕎麦の始まりです。また、大根おろしの汁に焼き味噌をといたつゆを「からつゆ」と呼び、それで食べるそばを行者そばと呼びます。 |
| ② 梅庵……長野県伊那市荒井内の萱7088-2。(2010/08) 満席で、しばらく待たされた。行者そばとそばがきを食べる。 行者そばは、太打ちの十割そば。まずそばをそのまま賞味。次に塩で味を楽しみ、さらにたれを少々つけて食べる。次に辛し大根とネギをたれに入れて食べ、最後に辛し大根とネギを入れたたれに焼味噌を溶かして食べる。 |
| 5 飯山市 |
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| ➀ 小菅神社[⑴小菅神社奧社、⑵小菅神社里宮](2010/08) |
| ⑴ 小菅神社奧社……長野県飯山市大字瑞穂内山7103。 小菅神社奧社本殿附宮殿二基に対する重要文化財指定の文部省の説明板には次のように記されていた。 「奧社本殿は、小菅部落東方の長い杉並木の参道を登ると、山頂に近い標高約九〇〇メートルの岩壁に寄せ、深い渓谷に南面して建てられている。岩壁は建物を覆い、堂内には甘露池がある。(中略)/小菅神社は役小角創立を伝え、馬頭観音を本地とし、熊野、金峯、白山、立山、山王、走湯、戸隠の諸社を勧請し、八所権現を祀る。中世は小菅山元隆寺と称し、京都禅林寺(若王子神社の別当)の荘園に属し、戸隠、飯縄とならんで修験の道場として著名であった」 |
| ⑵ 小菅神社里宮……長野県飯山市大字瑞穂6043 平成十七年の「小菅神社御由緒」によれば 「小菅神社は、飯山市大字瑞穂小菅に鎮座され、小菅山の山頂近く岩壁に南面して、奧社、麓の里には里宮を配します。小菅神社は、古来より、戸隠山、飯縄山とともに奥信濃三山と称せられ、一山を小菅山元隆寺と号しました。古くは山岳信仰神仏両道の聖地、一大修験の霊域として栄えました。(中略)奧社は明治以前までは、奥ノ院と称し、小菅山権現(馬頭観世音即素戔雄尊)と熊野・金峰・白山・立山・山王・走湯・戸隠の八ヶ所の神々を八所権現として祀り。(中略)明治以後は政令により小菅神社奧社と改称され、八所大神を祀り篤く信仰されております。/里宮は、主祭神素戔雄尊を祀り、相殿に平城・嵯峨天皇を祀っております。(以下略)」 |
| 【小菅山ハイキングコース】 小菅神社里宮から奧社への参道を歩く。奧社近くになると北竜湖分岐がある。 まず奧社まで行き、北竜湖分岐に戻る。そして小菅山を登頂し、北竜湖に下って、小菅神社里宮に戻る。 |
| 6 茅野市 |
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| ➀ 役行者越え・御座岩……長野県茅野市北山、小県郡長和町大門、北佐久郡立科町大字芦田八ヶ野。(2015/08) 茅野市、柏原区、白樺湖区、白樺湖観光協会の説明板には、役行者越え、御座岩について、次のように記されている。 【伝承/役の行者越え(役堂場跡)】 西暦700年頃(大宝年間)、役の行者(役の小角・修験道開祖)が、日本国中のお寺や山を巡り歩いて修行した際、諏訪の蓼科山登山のため、柏原より北の方に諏訪湖の水源である音無川があり、殊に平坦の土地だったので、暫く此の地に止まり、一宇の草庵を建て往来庵と名付けた。 幸いに巨岩が二段あったので、此の岩の上で柴を焼き、護摩を焚いて蓼科山を拝み、修行した後、登山したとの事である。 下山の後、行者は又、諸国巡錫に旅立たれたので、此の場所を役の行者越え、又は役堂場と云う。 また御座岩については次の通りである。 【武田信玄休憩の御座岩】 戦国時代、甲斐の武田信玄は佐久・小県・北信濃の制覇に際して、いわゆる信玄の「中の棒道」を通り、柏原から御座岩へ、ここで一休みして軍団を整え、一気に大門峠を越えていった。 また、ここから古東山道を役の行者越えに北佐久郡へ、あるいは南佐久郡の「佐久の棒道」から大河原峠越えの軍団が諏訪側からの軍団と勢揃いするなど、信玄がここに陣を張り、御座岩に腰を据えて諸方面からの軍団の集結をはかり、軍議をこらした要所として知られている。 さらに御座岩遺跡について、長野県教育委員会、茅野市教育委員会、柏原区の説明板には、次のように記されている。 【長野県指定史跡/池之平御座岩遺跡/昭和三十七年九月二十七日指定】 御座岩遺跡は、白樺湖北岸のほぼ中央から緩傾斜で湖心に突出した安山岩の岩塊群である。この地は標高1400mの高地であり、ここから東方の雨境峠を越えて佐久へのコースは古東山道の役の行者越えとよばれ、北方へは100mほどで大門峠(標高1441m)へ通ずるなど、古くからの交通の要衝であった。白樺湖は昭和21年に造成された人造湖であるが、28年に減水した時、御座岩の南側に岩穴が現われ、先土器時代の石器、縄文早期から晩期にかけての石器、土器・土偶・耳飾りなどの土製品、さらに弥生式土器・土師器・須恵器・幣玉・宋銭・鉄鏃などの古代から歴史時代に至る遺物も発見された。なかでも、滑石製模造品としての幣玉の出土は、この岩を磐座として峠神に旅の安全を祈願したものといわれている。 この御座岩は、また、武田信玄が川中島進攻の時休憩したところと伝えられている。 |
| 7 小県郡 |
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| ➀ 田沢温泉(温月庵薬師堂)……長野県小県郡青木村。(2011/07) 「温月庵薬師堂は役行者開湯の時に始まる、万病を治し、子持の湯、有乳湯も薬師如来の霊験と信じられ、古来四季を通じて参拝する浴客が多かった。弘法大師この堂に篭り、自作の像を安置されたと伝えられ、また、上田城主真田家の崇敬篤く、高野山蓮華定院別当職の派遣を乞う等、高野山との関係も深い。……」。(温月庵薬師堂の説明板) |
| 8 諏訪郡 |
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| ➀ 宝光院…長野県諏訪郡下諏訪町東町中。真言宗醍醐派・修験道信濃分教会。(2011/07) 諏訪大社下社秋宮から142号線(中山道)を、来迎寺を経てさらに北進すると、右手に慈雲寺がある。慈雲寺の道路向かいの石段を下りきると龍の口である。その途中、左に宝光院(昭和7年設立)がある。 本尊は不動明王のようだ。手前に開運厄除不動明王(万延元年・1860、高遠・永沼庄兵衛宗寿作)が祀られており、右手に「神變大菩薩」と彫り込まれた大きな石碑が建っている。また左手には「聖寳理源大師」と彫られた石碑が建っている。 |
| ② 大岩不動尊の役行者…長野県諏訪郡下諏訪町木の下。(2011/07) 諏訪大社下社秋宮から142号線(中山道)を北方向に進むと、来迎寺がある。 来迎寺の北側の道を東に入る。鳥居の前に「鎌倉街道ロマンの道」と記した道標があり、鳥居をくぐって突き当たったところが、大岩不動尊である。 明治17年、二達山信仰の行者らによって開かれたという。不動尊を祀った三つの社があって、その石段の前に役行者と弘法大師が祀られている。 役行者像は、肉彫の石像で、右手に経巻、左手に錫杖を持った倚像である。落ち着いた静かな表情をしている。【写真3】 |