役行者を巡る【岐阜】
| 1 大垣市 |
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| 金生山明星輪寺…岐阜県大垣市赤坂町。真言宗。(2003/11) 役行者の開山。美濃赤坂虚空蔵菩薩。本尊の虚空蔵菩薩は「日本三大虚空蔵菩薩」に数えられている。西美濃三十三ヶ所霊場第三十一番札所。 境内の案内板によると、金生山明星輪寺(真言宗)の由来は、以下の通り。 「持統天皇の勅願により鎮護国家の道場として朱鳥元年(686)役の小角の創立にかかり七堂伽藍を始め一山五坊を創建し本尊虚空蔵菩薩を安置す。その後衰退していたが空海(弘法大師)来山し諸堂を再建すこのとき桓武天皇は勅願を下し封戸三百石を寄進された。久安四年雷火の為に伽藍は残らず焼失したが時の住僧は八方に手を尽くし復興を図る。その後、慶長十四年美濃高須の城主徳永法院壽昌は本堂を初め諸堂を再建された。江戸時代に入って大垣藩主戸田家は代々祈願所と定め帰依し保護す、明治維新以降は新時代信仰の対象として広く一般参詣者を迎え法灯を今日に伝えている」。 寺の背後の「岩巣公園」を歩いた。 |
| 2 高山市 |
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| 高山祭・行神台(ぎょうじんたい)…岐阜県高山市下三之町。 宮川朝市の行われる通りに、行神台の屋台蔵がある。高山祭の最古の屋台の一つ。役行者の屋台である。【写真1】の屋台下段の正面扉の左右に前鬼、後鬼が浮き彫りされている。(2000/10、2012/10) 「まつりの森」には、行神台の模型がある。(2000/10) 行神台の屋台蔵で直接聞いた話によると、高山では、役行者に関係のあるお寺はあまり聞かないとのこと。そしてこの役行者は、飛騨盆地を開いた神様であるとのこと。現在は屋台曳行順(曳きまわしの順序)は、くじ引きで決めるが、かつては常に、この行神台が曳きまわしの先頭をつとめていたそうである。(2000/10) |
| 高山屋台会館の屋台の説明に、行神台についてのそれぞれの年代の説明は次のようであった。 …… 天明二年(1782)、行者台(行神台)、行神体内墨書に行神像はこの年の作と書かれている。(この年創建か) 天保二年(1831)、行者台(行神台)、屋台再興。 明治八年(1875)、行神台、一部を類焼。 明治一六年(1883)、再興。 昭和二六年(1951)、行神台再興、屋台蔵建造。 …… 明治以前は、行者台と呼ばれており、おそらく明治の廃仏毀釈で屋台の名前が行神台に変えられたようだ。(2000/10) |
| 「創建年代は不明であるが、古記録によると、享保3年(1718)の八幡まつりに参加した湯の花台から分れ、一つは仙人台、一つはこの行神台になったといわれ、最古の屋台の一つである」(桑谷正道『高山祭の屋台』飛騨高山観光協会、平成12年10月1日、48ページ)。 「……昭和26年になって50年ぶりに復活したものである」(同上) 「飾り人形は役行者である。昔、この付近が馬捨場、墓地のみの未開発地であった頃、1人の行者がやって来て、始祖役の小角を祀る一堂宇を建てて定着したのを機に人家も建ちならぶようになったので、それを徳として屋台の祭神としたのだという」(同上) |
| 「行神台/全屋台中唯一の栗材台輪をはじめ、朱塗りの玉垣や密教の法具五独鈷などの独特の意匠が見どころ。この地を繁栄させた祭神として、役の行者を祀っています。」(『秋の高山祭』2012年のパンフレット、高山祭協賛会など) |
| 「インターネット飛騨」の「秋の高山祭(屋台)」によれば、以下の通りである。(2000/10) 行神台(ぎょうじんたい) 下三之町 沿革 八幡祭の屋台行列の始まりといわれる享保三年(1718)には、屋台四台が曳かれたが、その一台「湯の花」から分かれて創建されたという。天保二年(1831)改修。明治八年(1875)の大火で一部を焼失し、同十六年(1883)恵比須台より部品を譲り受け再興した。その後明治三十六年(1903)より破損のため休台したが、昭和二十六年、大修理をして五十年ぶりに復活した、屋台蔵も創建した。昭和四十三年、昭和五十九年修理。 構造 切破風屋根 四輪内板車 特色 祭神として、役小角(役行者)の飾り人形を祀り、中段高欄は玉垣、上段高欄の四隅には密教の法具五鈷をさすという形態になっている。これは、当地域が、役小角を崇敬する一人の行者によって開拓されたため、その遺徳を追慕したことに由来する。またこのような由緒から、以前は道開きの屋台として常に神楽台につぎ全屋台の先頭を曳いていた。 文書:「高山の文化財」(高山市教育委員会発行)より |
| 3 関市 |
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| ➀ 関市洞戸円空記念館…岐阜県関市洞戸高賀1212。 30体ほどの円空仏が展示されている。その中には、役行者像はなかったが、写真が展示されていて、埼玉県幸手市の個人蔵、同県嵐山町の個人蔵、奈良県大和郡山市の松尾寺の役行者像が紹介されていた。 また備置されていた『ほらど村の石造物』(野村真富、平成四年)に、二体の役行者の石像が掲載されていた。一体は岐阜県関市洞戸上菅谷ミゾ洞口(文政十年、1827)のもの、もう一体は岐阜県関市洞戸下菅谷四ッ切(天保四年、1833)のものである。(2013/04) |
| ② 関善光寺(妙祐山宗休寺)…岐阜県関市西日吉町35。天台宗安楽律法流。(2013/04) 寺の階段を上がって、境内に入ると、当日は日曜日で、縁日の準備がなされていた。毎日曜日に行っているということであった。 本堂に向かって、右手前、弘法堂の左に行者堂があった。説明板には次のように記されていた。 「行者堂/役行者(別名/高祖神変大菩薩/役小角・役優婆塞)を祀る/我国修験道の始祖 西暦六三四~七〇一舒明~大宝年間の人。大和葛城に生る、幼少より三宝に帰依し、葛城山の岩窟に隠棲、草衣木食して心身の垢離をとり、秘法を修すること三十年、孔雀明王の像を拝し、遂に呪術を以って鬼神を駆使するに至る。富士、金峯、箕面の各山等々を登攀跋渉す、今日本各地の霊山に役行者の祀らざるはないとさえ謂れる。/美濃篁講/関善光寺」 役行者の石像は、丸彫りで、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。頬骨が丸みを帯びていて、温和な感じがするが、目鼻はきりっとしていて、緊張感を感じる。【写真2】 |
| 4 中津川市 |
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| 行者越…岐阜県中津川市中津川、長野県下伊那郡阿智郡智里。 恵那山・前宮ルートの行者越に、役行者の丸彫りの石像が祀られている。2002年5月12日に発見された。弘化三年(1846)の銘があるという。 若く、品のいい顔立ちをした石像である。小ぶりな倚像である。(2002/07)【写真3】 |
| 5 瑞浪市 |
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| 和合橋…岐阜県瑞浪市明世町山野内。 土岐川にかかる和合橋の東詰南側、小祠の間に、浮彫の役行者の石像が祀られている。 右手に錫杖、左手に経巻を持った細面の様子をした倚像である。天明五年(1785)の銘がある。(2010/08/10)【写真4】 |
| 6 山県市 |
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| 釜ヶ谷山・行者岩…岐阜県山県市長滝、本巣市外山。 伊自良村教育委員会が昭和61年(1986)に建てた、行者岩への案内の石柱に、次のように記されている。 「甘南備神社の祀られている霊峰釜ヶ谷の修験者がこの岩に座して修行したと伝えられている」 伊自良キャンプ場から釜ヶ谷山へ、奥の院コースを登ると、途中に行者岩に出会う。行者岩の上からは展望がひらけていた。(2013/04) |
| 7 郡上市 |
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| 星宮(ほしのみや)神社と粥川(かいがわ)寺…岐阜県郡上市美並町高砂。(2019/06) 金弊社・星宮神社のパンフレット「星宮神社と粥川寺」に以下のような説明文がある。ただし星宮神社の説明板の方がより詳細である。 虚空蔵信仰と修験の里「粥川」 当地域では、平安時代のはじめ、粥川のオズノ洞に役行者を祀る「雄角明神」があり、(美濃国神名帳)その周辺には雄角明神に奉仕する「般若院」等十二院があった。(星宮神社縁起)その後、平安中期から末期にかけて熊野信仰がひろがり、阿弥陀如来等が祀られた。時を経て、鎌倉時代から南北朝時代にかけては白山信仰が広がる中で、石徹白中居神社の信仰が浸透し、虚空蔵菩薩を本地仏として祀るようになった。 虚空蔵菩薩ははかり知れない幸福や知恵を与え、人々の願いをかなえてくれる菩薩であり、明星天子として祀るので、星宮神社と称するようになり、その別当寺が粥川寺であった。多くの懸仏が奉納され、浄財による仏像の造顕、大般若経の写経等が盛んに行われた。こうした信仰の中心となったものが、修験集団であり、彼等の厳しい修行の中心地が粥川寺であり、大谷川(粥川)であった。 信仰が盛んになるにつれ、その周辺地では修験の働きを支える仕組みができ、中世の粥川は修験の村となった。近世のはじめ、円空は粥川寺で得度し、ここを本寺として全国へ遊行に出かけている。 |
| 「ふくべの里バンガロー村」への入口に、雄角(おつの)橋が架けられている。 ※ 粥川のオズノ洞の「オズノ」、雄角明神、雄角橋の「雄角(おつの)」は、役小角の「小角(おづぬ)」の言い換えであろうと思われる。 |
| 8 下呂市 |
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| 役行者堂…岐阜県下呂市湯之島。 下呂温泉「内湯・浅野屋」(下呂市湯之島746-2)の北側にある。 「役の行者」の説明板には、末尾に次のように記されている。 「役小角は……千百年忌に当たる寛政十一年(一七九九年)、光格天皇より神変大菩薩の尊号を賜ったのであります。……/この役行者堂は、安永年間に初めて建立され、嘉永年間にも一度再建の記録がありますが、平成十三年八月現在地に御遷座いたしました。」 堂内の「役行者堂」の扁額の下に、由来が簡潔に記されている。 右から「役行者/安永年中武川真了院建/聖護院宮御免栄徳講/嘉永庚戌秋/桂川五良兵衛再建/不動明王/昭和四年十二月建/神変大菩薩」 ちなみに安永は1772年から1780年までの期間、嘉永は1848年から1854年までの期間で、嘉永庚戌は嘉永三年(1850)である。 堂内には、中央に浮彫の不動明王、その左右に役行者・神変大菩薩の丸彫りの石像が祀られており、その背後には仁王像が祀られている。 右の石像が役行者で、左の石像は寛政十一年(1799)以降に造られたので、とくに神変大菩薩というようだ。 右の役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。丸顔で、その表情は、素朴である。他方それとは対照的に、左の神変大菩薩像は、痩せた顔つきで、少々あごを突き出し、すまし顔である。左右の石像を見比べていると、楽しい気分になった。(2013/04/16) 【写真5】 |
| 9 加茂郡 |
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| 愛宕山(261m)…岐阜県加茂郡川辺町福島。 米田富士という。 元は山頂に加茂神社が祀られていて加茂山といった。今は山頂に愛宕神社が祀られて愛宕山となった。 川辺町のホームページ(2013/04)には、米田城址について、次のように紹介されている。 「米田城址/室町から戦国時代にかけて米田富士の山頂にあったお城の跡。築城したのは肥田玄蕃允軌休。天正10年(1582)、森長可に攻められて落城してしまった。今は礎石の部や空掘の跡か残っている。」 JR高山本線・中川辺駅の東方、山川橋を渡って、さらに東に向かうと、福島神田・交差点に出会う。南北の道路が国道418号線である。駐車スペースは、福島神田の少し北側の路側帯にしかなかった。交差点の少し南に、「米田富士登山口」の標識があった。そこから左斜めに舗装道を上がっていくと、登山道の簡略な米田富士登山道案内図があった。そこから北に登るのが西登山道(20分で山頂)。西登山道には向かわないで直進(加茂神社経由山頂まで15分)すると、すぐに加茂神社に着いた。ここから北に登るのが南登山道。時間的余裕がなかったので、山頂に行くのはあきらめて、そこから南に参道を下った。 すぐ先に、役行者の丸彫りの石像が祀られていた。 弘化年間(1844~1848)に建立されたものである。痩せ形で、細めた目は横に一文字に長く、また小さな口も横に閉じている。どこか埴輪でみたような様子をしている。おそらく右手に錫杖を持ち、左手に経巻を持った倚像である。 そこからさらに下って、石の鳥居のある参道の入口に着いた。右(西)に向かう。途中、石田弘法堂を見て、福島消防コミュニティーセンターに着くと、国道418号線である。右(北)に向かえば、元に戻る。(2013/04/14)【写真6】 |
| 10 写真一覧 |
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| 1 高山祭・行神台 2 関善光寺・行者堂の役行者 3 恵那山・行者越の役行者 4 和合橋の役行者 5 下呂温泉・役行者堂の役行者 6 愛宕山(米田富士)の役行者 |