役行者を巡る【三重】

役行者を巡る【三重県】
【津市】➀亀山峠 ②真福院 ③蔵王公園
【伊勢市】世義寺
【松阪市】➀堀坂山 ②飯福田寺 ③継松寺
【名張市】➀延寿院 ②行者滝 ③行者不動滝
【北牟婁郡、尾鷲市】天狗倉山
【尾鷲市】馬越公園の行者堂
【亀山市】加太行者山
【鳥羽市】今浦行者山
【志摩市】➀浜島の大山 ②明王院
     ③桧山路浅間山の役行者
【伊賀市】➀大光寺 ②上野だんじり会館
     ③猪田神社 ④常福寺 ⑤池辺寺
【三重郡】引接寺
【度会郡】行者山
 写真一覧
【津市】
➀倶留尊高原・亀山峠…三重県津市美杉町太郎生、奈良県宇陀郡曽爾村大字太良路、宇陀郡御杖村大字菅野にまたがる。標高は800m。
 「役行者」と彫られた石碑が立っている。(2001/05)
 1995年12月に、倶留尊山(1037.3m)に登って、亀山(849m)に向かったときには、ひっそりと佇んだ「役行者」の石碑に気がつかなかった。峠の北側に「役行者」と刻まれた石碑があって、三重県側から東海自然歩道を亀山峠に登ってくると、よく目に入る。
②御嶽山真福院…三重県津市美杉町三多気204。(2008/04)
 真言宗醍醐派。本尊は蔵王大権現。別名、金峰山寺。
 役行者開基。理源大師開山。
 三重四国八十八ヶ所霊場第七十一番札所。
 以下は、津市のホームページからの引用による。
【眞福院(しんぷくいん)と三多気の桜】
 JR名松線の終点伊勢奥津駅から国道368号線を西へ約4キロメートル進むと、奈良県との県境があり、その手前約500メートルから右に折れると三多気に至り、そこには約50戸の集落がある。
 標高958メートルの大洞山(オオボラヤマ)雌岳を背にして南東側529メートルの地に「御嶽山眞福院」がある。
 眞福院は、今からおよそ1300年余り前の白鳳時代に、修験道の祖である役行者が、この地に蔵王権現を祭って開いたといわれる古いもので、神仏習合思想の名残りを留めている。
 参道階段下の鳥居付近には弘長の梵字碑や石仏群があり、山門までの石段両側には、数百年も生き続けている欅(ケヤキ)や杉の大木が並ぶ。
 眞福院の行事としては「精進祭」が有名で、これは鎌倉後期の文保年間に始められたといわれ、正しくは「精進祭流鏑馬の儀式」とよばれて、毎年正月7日から10日まで、古式どおりに行われていたが、現在は過疎高齢化の影響を受けてこどもや青年も居らず、やむなく行事は中止している。
 三多気の桜は、昭和17年7月、桜の樹種ならびに古木の多いことで日本唯一と認められて、文部大臣指定名勝地となったほか、昭和62年に建設省「ふれあい並木道30選」手づくり郷土賞、平成2年には、財団法人日本さくらの会より「さくらの名所100選」にも選ばれるなど、全国的にその名が知れ渡り、桜の咲くころには観光客やアマチュアカメラマンなどが大勢訪れるが、道幅も狭く駐車場も少ないので、特に桜の満開の頃の土曜日・日曜日などは混雑する状態が見られる。
 桜の起源は、今から1100年余り前に理源大師がこの地に留まって植えたのが始まりといわれ、平安末期には在原業平、平清盛、北畠親房等が訪れ、参籠して詩を詠んだという記録が残っているという。
 また、北畠の祖、中院道方卿は深く帰依して「堂」や「塔」を建立し、桜を増殖したと伝えられ、さらに、顕能卿は念持仏不動尊を納めて一族の祈願所と定め、多気(たげ)の国司館から飼坂峠(かいさかとうげ)を越えて眞福院の山門まで8キロメートル余りの沿道に桜を植えたという。その一部が三多気の入り口から山門までの間に桜並木として数百年も咲き続けている。
 その数は、およそ500本、ほとんどがヤマザクラで4月中旬から下旬にかけて見事な花を咲かせている。
 ヤマザクラは他の桜と比べて成長は遅いものの、寿命が長くて病気に強い。
 幹が苔むしても数百年生き続け、満開の頃は花と葉が同時に開いて、何ともいえぬ奥ゆかしさがあると、その筋の人(ヤマザクラ愛好家)には大変人気が高い。
 原文:地元住民(語り部)談
③蔵王公園の蔵王堂…三重県津市美杉町三多気。(2008/04)
 三多気の桜公園の案内板に次のように記されている。
「蔵王堂に祀られた蔵王権現は、吉野の蔵王権現、三多気真福院の蔵王権現とあわせた三姉妹であり、その長女の蔵王さんであると伝えられています。戦時中伐り取られるまでは、他二ヵ所の桜の名所に負けないほどの壮観でした。近年、地元住民・公園事業により再び整備され、ハイカーのやすらぎの場となっています」。
【伊勢市】
教王山世義寺…伊勢市岡本2-10-80。(2016/02)
 真言宗醍醐派。本尊は薬師如来。
 三重四国八十八ヶ所霊場第八十四番札所。役行者霊蹟札所。
 日本最古の「役の行者像」といわれる寺宝を拝観することはできなかった。ただし本堂の背後に洞窟があって、役行者の石像が、他の三体の石像とともに祀られていた。
 「五十度供養」と彫られた台座の上の役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、袈裟を着用、高下駄を履いている。舟型の光背は、岩石を積み上げた岩窟を示している。顔は丸顔で、眼をかっと開き、口を閉じていて、その表情は意志の強さを感じさせる。【写真1】
 お寺で頂いた由緒について案内文は、以下の通りである。
【沿革と由来】
◎創立と背景
 世義寺の創立は、天平十三年(七四一)開祖行基菩薩が聖武天皇の勅により、鎮護国家の祈願所として伊勢の前山に、建長年間には、外宮の西へ、次いで寛文十一年には現在地に移り、この地には塔頭十九ヶ寺を有しておりましたが、明治維新の廃仏毀釈により護摩堂(威徳院)一宇を残して、その他は廃寺を強いられました。その後大正四年には新たに聖天堂や参道もでき、現在の復興を見るに至っています。
◎修験道に於ける世義寺
 修験道とは、自然崇拝に於ける山岳修行によって超自然的な力を体得し、密教・陰陽道〈易学)などを習合することにより、呪術的活動を根本とする宗教であります。世義寺では伊勢山上・鷲嶺の岩屋などの修験の里である伊勢地方を中心に、修練の日々を続けております。修験本来の寺務である柴燈大護摩・祈祷・易占・家相・名付けなどの活動を、古来よりの修法そのままに継続し多くの信仰を得ております。(以下略)
【松阪市】
➀堀坂山…三重県松阪市伊勢寺町と勢津町にまたがる。(2002/01)
 堀坂峠から頂上に至るまでに、二ヶ所に大日如来の銅像が祀ってあり、最初の大日如来の左脇に約70cmの役行者の石像が祀られている。また二ノ峰の大日如来の手前にも約50cmの役行者の石像が祀られている。
②伊勢山上飯福田寺…松阪市飯福田町273。(2007/03)
 真言宗醍醐派。薬師如来。
 三重四国八十八ヶ所霊場第七十三番札所。
 仁王門の手前の右に、苔むした役行者の石像が祀られていた。頭部は、お釈迦様かもしれない。耳たぶが大きい。右手におそらく錫杖、左手に経巻を持った倚像である。
 薬師堂の中には、彩色された役行者の木像が祀られていた。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。【写真2】
 また伊勢山上(飯福田山)の行場には、多くの役行者が祀られていた。表行場の薬師堂横の入山口から油こぼしに向かう途中に、役行者の小さな石像が、大きな石の上に祀られている。高祖神変大菩薩の札が置かれている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、顔は細面である。【写真3】
 油こぼしには、岩壁の下部と中程の二ヶ所に、それぞれ役行者の石像が祀られている。それらの役行者も右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、丸顔である。ただし中程の役行者の表情の方が厳しい様相をしている。
 また油こぼし上部の岩の上には、役行者の小さな石像と青銅像が祀られていた。それらも同様に右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。青銅像の役行者は、とりわけ厳しく眼をかっと見開き、睨みつけたような表情をしている。【写真4】
 その前後には行者越、岩屋本堂、行者岩などがある。
 さらに元居ヶ原には、役行者の石像が二体と後鬼の石像が祀られている。役行者の石像一体と後鬼の頭部はない。【写真5】
 裏行場の達磨岩には、役行者の青銅像が祀られていて、穏やかな顔をしている。右手は欠損しているが、左手に経巻を持った倚像である。【写真6】
 獅子ヶ鼻には、役行者の石像が二体祀られていて、右側の石像の顔つきは、ふっくらとしている。【写真7】
 以下に、松阪市教育委員会の説明板「飯福田寺の文化財」を紹介する。
 本寺は、大宝元年(701)、役小角の開創と伝えられ、真言宗に属する。中世には、伊勢国司北畠家の祈願所として荘厳な伽藍を構えたというが、蒲生氏郷により堂宇は壊され、松阪城の用材に充てられたという。現在の本堂は、享保四年(1719)に再建されている。
 伊勢山上
 「伊勢山上」と称される飯福田山は、一志高原の北麓に位置する標高390メートル余りの山麓丘陵である。山内には、自然風化した巨大な露岩が奇岩、怪石、岩窟の様相を停止、絶妙の風光美を形成している。そのためこらい、修験道の霊場となり、岩屋本堂をはじめ鏡掛、蟻ノ戸渡りなど多くの行場がある。(以下略)
③岡寺山継松寺…松阪市中町1952。(2000/04)
 行基が天平十五年(743)に開山。
 高野山真言宗。本尊は如意輪観世音菩薩。
 俗に厄除観音といわれる。また日本最古の厄除霊場だという。
 三重四国八十八ヶ所霊場第八十一番札所、伊勢西国三十三所霊場 第八番札所、東海三十六不動尊霊場 第二十六番札所、東海新西国霊場 第二十番札所。
 松阪駅の近く(北西)にある寺で、厄除け観音で有名。本殿の左手の堂には弘法大師が祀られており、反対側の本殿の右手には小堂があって、玉眼の役行者木像が祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。【写真8】
 岡寺山継松寺のホームページによれば、縁起は次の通りである。
【継松寺 開創の縁起】
 当山に伝わる『継松寺儀軌』によると、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建しています。
 東大寺建立の大事業が無事成功することを祈願するために建てられた寺院でした。
 聖武天皇42歳の厄年の際に、ここのご本尊如意輪観世音菩薩を宮中にお奉りし祈願した後、再び当山に安置したことから厄除け観音としてこの地域の厄年の参拝者が多く訪れます。
 後に洪水によりお堂は流失しますがその際に海中よりご本尊を拾い上げた二見の漁師であった三津五郎右衛門正信が弁財天のお告げを聞いて出家し継松法師となりお寺を再建したことから継松寺と名付けられるようになりました。
 また弘法大師空海が当山に逗留した折に本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を造り安置したと伝えられています。
 元は石津にありましたが、慶長17年(1612年)松阪城主古田重治により現在地に移されています。
【名張市】
①黄龍山延寿院…三重県名張市赤目町長坂755。(1999/04)
 天台宗山門派。本尊は不動明王。
 赤目四十八滝の入り口にある。
 赤目まちづくり委員会による「延寿院」の説明。
 本寺の創建は、かなり古く役行者の開基によるとされているが、平安時代の中頃(承保年間[1074~1076])僧正縁により行者ゆかりの赤目滝を発見され、河内国の僧延増が保安三年(1122)に建立したとされる。延寿院の前身は、青黄竜寺と呼ばれた。寛喜三年(1231)には、伊賀一国の納経所となって多くの参詣者が集まるところとして知られた。境内にある石灯篭は、旧国宝で現在は国の重要文化財に指定され、本堂の傍らに建つ十三重の石塔及び納経版木、宝印版木は、名張市文化財になっている。また、境内にある枝垂桜も樹齢およそ三百年以上であり、名張市文化財になっている。
②行者滝…三重県名張市青蓮寺、赤目町長坂。(1999/04)
 赤目四十八滝の一つ。役行者が修行したと伝えられている。
③行者不動滝…三重県名張市青蓮寺、中知山。(1999/04)
 香落渓にある滝。
【北牟婁郡、尾鷲市】
天狗倉山…三重県北牟婁郡紀北町海山区相賀と尾鷲市大字南浦にまたがる。標高は522mである。(2010/12)
 山頂の下に煉瓦造りの祠があって、厨子の中に彩色された役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られている。役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持ち、右足を上げた半跏像である。厳しさは見られないが、意を決した表情をしている。【写真9】
 この行者堂の左に私製の説明板「この小さなお堂には」がある。このお堂に祀ってある役行者についての説明に続けて、「このお堂は、市内の有志でお世話しています霊験有難いものがあります。昔の事で定かではありませんが、前方右側の『高峰山』の彼方からと、前方正面の『八鬼山』からとの二説がありますが、天狗が飛来して、ここに御堂が祀られたという話が伝わっております」という。
【尾鷲市】
馬越公園の行者堂…三重県尾鷲市馬越町。(2010/12)
 馬越公園に入ると、行者堂がある。行者堂には役行者、不動明王が祀られている。
 役行者は丸彫りの石像で、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像である。また右下に、同様の小さな役行者像が祀られている。
 行者堂の左後ろには、「大峰修業五拾ヶ度供養塔」の石碑がある。説明板の内容は以下の通りである。
「開祖・役の行者をまつる行者堂の左横に、『大峰修業五拾ヶ度供養塔』と刻んだ石碑が建てられている。/『昭和十八年十月二十五日、尾鷲行者講 大先達 嶺仙院 吉田興吉』と彫られている。(中略)/行者堂から左へ約百メートル入ると、不動滝があり『不動明王石像』をまつる。/江戸時代、寛政六年(1794)は、干ばつで飲み水にも事欠き、尾鷲組ではここで『雨乞い』を行った。紀州藩は熊野三山で雨乞いを祈禱し、浦村で救い合いに尽力するよう特別の触れを出した」。
 馬越公園の行者堂の先に、役行者が開いたという馬越不動尊があって、不動の滝の脇の岩窟に不動明王、役行者が祀られているという。
【亀山市】
加太行者山…三重県亀山市加太梶ヶ坂、加太市場。(2005/04)
 標高は347.5mで、三等三角点が置かれている。
 加太駅から牛谷山を登り、そして行者山を登った。石像などはなかった。近くに板屋行者山(274m)がある。
【鳥羽市】
今浦行者山…三重県鳥羽市浦村町。(2016/02)
 標高は120m。櫛ヶ峰の東端。本浦町今浦地区のすぐ西側。
 岩稜の山頂直下の岩陰に、役行者が祀られている。鬼瓦のような役行者は珍しい。【写真10】
【志摩市】
➀浜島の大山…三重県志摩市浜島町浜島。(2016/02)
 県道17号線(浜島バイパス)が国道260号線に合流するまでに、浜島市街への分岐道を左に見送ると、すぐ先の右手に鳥居のある大山登山口がある。少し急な登山道、擬木の階段を登る。
 英虞湾、志摩半島を望む大山展望台(139m)を過ぎると、建物があって、2つの鳥居の後ろに、それぞれ石像が祀られている。
 右に祀られている2つの石像は、大日如来で、古い方は宝永四年(1707)のものだという。
 左の鳥居の元に祀られている石像は、役行者、蔵王権現、不動明王である。
 役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。かなり風化していてはっきりしないが、顔は丸く、好好爺然とした雰囲気を漂わせている。【写真11】
 標高156.4m、二等三角点のある大山の頂上は、もう少し先である。
②南海山明王院…三重県志摩市浜島町浜島花岡967。(2016/02)
 真言宗醍醐派。
 浜島の薬師堂。明王院薬師堂。
 本尊薬師如来とともに、不動明王と役行者が祀られているいるというが、本堂内の様子がよく分からなかった。
③桧山路浅間山の役行者…三重県志摩市浜島町桧山路。(2016/02)
 桧山路生涯学習センターに車を停め、まず無量山江月禅寺に向かう。お寺には、役行者に関するものは見当たらない。県道112号線に戻って、北方向に歩き、桧山路川にかかる橋を右に見て進むと、すぐ先の左手に舗装道がある。舗装道に入り、しばらくすると舗装道が切れて山道になる。一番の高所が浅間山(74m)の頂上であるが、標識など何もない。先を下って行くとベンチのある小さい広場に出会う。そこに役行者を祀った石窟がある。
 役行者は、丸彫りの石像で、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。左上方を眺めるような表情をしているが、細面の顔面は崩れており、痛々しげであり、また寂しげでもある。【写真12】
【伊賀市】
➀岡山大光寺…三重県伊賀市寺田1535。(2003/11)
 真言宗豊山派。十一面観世音菩薩。
 三重四国八十八箇所三十番札所。伊賀四国八十八箇所第三番霊場。
 岡山の頂上付近にある大光寺に向かう途中に、行者堂がある。
 行者堂の中をのぞいてみると、役行者像は厨子に仕舞われているようで分からなかったが、その両脇に前鬼、後鬼の木像が祀られていた。
②上野だんじり会館…伊賀市上野丸之内122-4。(2003/11)
 近鉄伊賀線・上野市駅から北へ徒歩5分。上野公園東口の前にある「だんじり会館」で、3基のだんじりと鬼行列を展示していた。主役は役行者(阿古武尉)。「日本一の大御幣を先頭に役行者や鎮西為朝、百数十体の鬼行列、絢爛豪華な9基のだんじりが城下町を練り歩く」と説明があった。【写真13】 【写真14】
 上野天神祭は400年余りの歴史を有し、関西三大祭りの一つに数えられている。またこの天神祭は、国の重要無形民俗文化財に指定され、平成28年にユネスコ無形文化遺産に登録された。
 以下は「令和7年版リーフレット」(上野文化美術保存会)より。
鬼行列
 神輿のお渡りに供奉し、悪疫退散と五穀豊穣を祈念する鬼行列は、三百有余年の伝統を今に守る、全国他に類を見ないものです。鬼町と呼ぶ四つの町で伝承し、二つの行列で編成しています。
 一つは元禄年間に始まったと伝えられる役行者を中心とした「役行者列」、もう一つは寛政年間に始まったとされる鎮西八郎為朝を中心とした「鎮西八郎為朝列」です。桃山時代から江戸後期にかけて製作された、能面を始めとする面を被り練り歩く鬼行列は、観る人々を幽玄の世界に誘います。
[役行者列]
 鬼町四町の内、上野相生町、上野紺屋町、上野三之西町で構成しています。かつて紺屋町には寿福院(現、松本院)と言う修験寺院があり、藩祖藤堂高虎の信仰も篤く、高虎が晩年眼を患った時、大峰山に眼病平癒祈願を行い、この返礼として能面「阿古父尉」を寄進されたと伝えられています。
 町衆はこの能面を被り、天神祭に大峰山峰入りの姿を再現したと言われ、これが役行者列のモチーフとなっています。元禄年間(1688~1704)に上野天神祭に加わっていたと思しき記録が残っています。
●大御幣
 高さ二十一尺重さ三十貫、日本最大級の御幣は、鬼行列の先頭を行く、役行者列の印です。陰陽五行に基づき中央の心柱に白、四方の柱には東方に青、南方に赤、西方に黄、北方に黒の彩色を施し、それぞれの柱に五大明王を勧請(かんじょう)し、これを五人の男衆で担ぎます。
 先頭は悪鬼と呼びます。悪という字には「強い」という意味が込められています。狩衣を着、静かな所作ですが、袂で隠された顔は、完全に鬼となり蛇体と化した真蛇の形相。
 八天、小さな鬼達ですが、野山を駆け巡る神々や精霊の面影が見えます。寺院の練り供養に登場する四天。前鬼・後鬼を追う形で、義玄を従え、行列の主役である役行者が来ます。法衣を纏い、手に錫杖、一本刃の高下駄という出で立ちです。釣鐘を背負い、経典を入れた笈を背負い、大斧を担ぐ四体のひょろつき鬼、その実は天狗や神々です。行列の最後尾から道一杯にひょろつきながらやって来ます。恐ろしくもユーモラスな動き、大人は笑い、子どもを泣かせます。
③猪田神社…三重県伊賀市下郡591。(2020/03)
 猪田神社は当初、猪田村の宮と言われていたようであるが、天正十八年(1590)の棟札には住吉大明神と書かれているから、少なくとも中世以降から住吉神社と言われたものと思われる。明治二十二年、猪田村・山出村・上之庄村・笠部村が合併して猪田村となり、同四十一年村内各神社を合祀後、猪田神社と改称した。
 社殿西側には磐座が、背後には猪田神社古墳、前方には姫塚古墳、丘陵東麓には天真名井、北方には山神祠・四角形石灯篭及び行者堂がある。
 行者堂に役行者の石像が祀られている。役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、品のよい顔立ちだが、唇をきっと閉じているのが印象的である。また高下駄が強調されていて、あわせて像の両脇に大きな高下駄が奉納されている。【写真15】
④江寄山明王院常福寺…三重県伊賀市古郡559。(2020/03)
 真言宗豊山派。本尊は五大明王。
 創建は養老六年(722)。徳道上人の開基。
 伊賀四国八十八箇所第二十九番霊場。伊賀四国霊場会の事務局。
 三重四国八十八ヶ所霊場第四十番札所。
 東海三十六不動尊霊場 第二十七番札所。
 本堂の左斜め前方、鐘楼の隣に昭和六十二(1987)年に竣工された行者堂があって、彩色された役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られている。役行者は、右手に錫杖、左手に数珠を持った倚像で、とりわけ均斉のとれた役行者の表情は、破顔一笑、眼を細め、人々に楽しく過ごそうと言っているかのようである。【写真16】
 常福寺のホームページによれば、縁起は大略次の通り。
 和州豊山長谷寺(総本山長谷寺)の開基である徳道上人が、長谷寺本尊の十一面観世音菩薩執行成就後に当地に於いて、「南面が晴れて霊鷲山に良く似た名利の地である」として、長谷寺本尊十一面観世音菩薩造立の余材を用いて稽文會・稽主薫の二人の仏師に命じて本尊五大明王(五大尊)を造り、仏閣を修造した後、天平二年(730)聖武天皇に上奏して勅願寺に定められました。(中略)
 大同二年(807)願安大師中興。興福寺末であった時代もあり、「興福寺官務帳」には「僧坊十八宇 交衆十人」と、相当有力な寺院であったことが記録されています。
 常福寺本堂
 天正伊賀乱において、本尊のみを残し堂宇を悉く焼失。その後、紀州根来より宥俊法印が入山し元和元年(1615)に当寺を復興。宥俊法印を中興開山の祖としております。
 徳川時代は、藩主藤堂家の祈願所として保護を受け、寺運も挽回し、寛政八年(1796)慶応法印が現在の本堂を造営しました。(以下略)
 常福寺の広葉杉(こうようざん)は、伊賀の三大広葉杉(伊賀市の滝仙寺、名張市の龍性院)の一つ。
⑤花垣山池邊寺…伊賀市予野197。(2020/03)
 真言宗豊山派。本尊は不動明王。
 文殊堂に役行者の木像が祀られていて、獅子に乗った文殊菩薩像の右に、役行者が祀られている。
 役行者は、右手に錫杖?、左手に経巻を持った倚像で、筋骨隆々とした体軀をしている。【写真17】
【三重郡】
尾高山引接寺…三重県三重郡菰野町大字田光。(2004/10)
 尾高観音。尾高山(533m)の南東麓。
 観音堂と行者堂がある。
 行者堂には役行者が祀られているという。
【尾高山引接寺の沿革並に縁起解説】
第八代孝元天皇の世に杉谷に生れた一女性、ある日山に上り薬草を発見しこれを服用して長寿を保つ。この女性信仰厚く佛像を彫刻して常に礼拝す。然るに故ありて若狭の国に移る。時たま々役小角は諸国巡錫中、この地の霊地なるを探り釋ケ岳の巌窟に草庵を結び修錬中、大和国平群郡大安寺の本尊にて上宮聖徳太子の制作なる千手観音を安置すべき霊夢あり、小角感極まって奉る。然るに山険しく谷深く参詣に困難なるために尾高の地に移し奉る。由来参詣人絶えず頗る隆盛を極む。桓武帝の時、ここに堂塔を建立し尾高山引接寺と勅號を賜ふ。而しく傳教大師の弟子澄光上人を侍僧とす。当寺神佛一躰の信仰時代とて上人は紀州熊野本宮より熊野大権現を勧請し大に布教につとむ。かくて法燈赫々参詣人陸続として遠近に信者を加ふ。仁明天皇の時都より小野篁来りて詠歌あり。「杉まふく峯のあらしや谷川の音もあまねく御法なるらむ。」と又八幡太郎義家は朝敵退治のため願をかけ堀河帝の寛治年中に一千石の寄附ありたりと記録にあり。(中略)かかる由緒ある寺院も、百〇七代正親町天皇の天正中、此の地に兵乱ありて織田信長のため、悉く焼失す。杉谷区民はその後寶物保存のため、杉谷山観音寺といふにまとめたりしたが明治四年に廃藩置県と共に無住無担の寺院は廃寺といふに至り伊勢岩淵町より慈眼寺といふを買受け寺號として今日に及ぶ。
【度会郡】
行者山…三重県度会郡大紀町に位置する。(2003/11)
 標高は667.5mで、三等三角点(点名は行者)が置かれている。
 地形図で行者山があるのを知って、「グリーンパーク大内山」で登山道について聞くと、道はないが、時々登る人もいて、頂上に祠があるとのこと。(1998/04)
 その後、インターネットで、紀勢町(現、大紀町崎)からの登山道があることを知る。坂津から雨の中を登る。山頂には、役行者の石像を祀った祠があった。少々厳つい顔をしている。【写真18】
 行者山登山口にある説明板。
【役行者像について】
 寛政11年(1799)、光格天皇により 修験道が認められた。山岳信仰が盛んになるとともに吉野・大峰・熊野の山々をはじめ、各地の山が霊場として修行の場となり、役行者像も各地に祀られるようになった。
 行者山(ぎょうじゃさん)が修験道の修行の場になっていたかどうかの記録はないが、現在でも各地から多くの人々がおまいりをしている。山頂の祠には、僧衣ををまとい、長いひげをはやし、右手に錫杖、左手にお経の巻物を持ち、高下駄をはき、岩に腰掛けた役行者像が祀られている。
写真一覧
【写真1】世義寺の役行者
【写真2】飯福田寺の役行者(1)
【写真3】飯福田寺の役行者(2)
【写真4】飯福田寺の役行者(3)
【写真5】飯福田寺の役行者(4)
【写真6】飯福田寺の役行者(5)
【写真7】飯福田寺の役行者(6)
【写真8】継松寺の役行者
【写真9】天狗倉山行者堂の役行者
【写真10】今浦行者山の役行者
【写真11】浜島・大山の役行者
【写真12】桧山路浅間山の役行者
【写真13】上野だんじり会館(1)
【写真14】上野だんじり会館(2)
【写真15】猪田神社行者堂の役行者
【写真16】常福寺行者堂の役行者
【写真17】池邊寺文殊堂の役行者
【写真18】行者山の役行者

        写真1 世義寺の役行者

       写真2 飯福田寺の役行者(1)

       写真3 飯福田寺の役行者(2)

        写真4 飯福田寺の役行者(3)

      写真5 飯福田寺の役行者(4)

       写真6 飯福田寺の役行者(5)

        写真7 飯福田寺の役行者(6)

       写真8 継松寺の役行者

      写真9 天狗倉山行者堂の役行者

       写真10 今浦行者山の役行者

       写真11 浜島・大山の役行者

       写真12 桧山路浅間山の役行者

       写真13 上野だんじり会館(1)

      写真14 上野だんじり会館(2)

       写真15 猪田神社行者堂の役行者

      写真16 常福寺行者堂の役行者

       写真17 池邊寺文殊堂の役行者

        写真18 行者山の役行者