役行者を巡る【滋賀】
| 1.大津市 ➀延暦寺 ②山中の役行者 ③園城寺 ④石山寺 |
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| ➀比叡山延暦寺…大津市坂本本町4220。天台宗。 大阪市立美術館で、役行者神変大菩薩一三〇〇年忌記念・特別展「役行者と修験道の世界」を鑑賞した(1999/11)。 「高野大師行状図画、巻第六、仙阿筆」(『役行者と修験道の世界』毎日新聞社、1999年9月)。室町時代、応永14年(1407)、延暦寺所蔵。 「巻六には空海に関わる伝承が多い。……第八段では大峯山で修行する大師と役行者が深い契りを結んだ話が載せられ」(210ページ)、立ち姿の役行者が描かれている(189ページ)。図37(30ページ)。 |
| ②山中の役行者…滋賀県大津市山中町。 山中(志賀)越の道を、京都市左京区北白川重石町から滋賀県大津市山中町に入ると、山中バス停の手前に石窟があって、苔むした役行者の石像が祀られていた。(2007/07)【写真1】 |
| ③長等山園城寺…大津市園城寺町246。天台寺門宗総本山。 別称、三井寺。日本天台三総本山。黄不動は日本三不動。西国三十三ヶ所霊場第十四番。関西・神仏霊場会第百四十七番。びわこ108霊場第六番(湖西二十七名刹第六番)。近江西国三十三所観音霊場第五番。 三井寺の総本堂・金堂(本尊は弥勒菩薩)には、役行者の倚像、前鬼、後鬼の木像が祀られていて、斧を持った前鬼(左)は赤色に、水差しを持った後鬼(右)は青色に彩色されていた。江戸時代作とのこと。【写真2】 2017/06にも拝観したが、2011年に盗難に遭った前鬼、後鬼は戻っていなかった。 また行者堂の前には、大きな役行者の石像がある。【写真3】 行者堂内部の神変大菩薩は、厨子が閉じられていて見ることができない。7月22日の本山採灯大護摩供の日に開扉されるとのことであった。(2003/05、2004/12、2017/06) |
| ④石光山石山寺…滋賀県大津市石山寺1-1-1。東寺真言宗大本山。 本尊は二臂如意輪観世音菩薩。 西国三十三ヶ所霊場第十三番。関西・神仏霊場会第百四十六番。びわこ108霊場第一番・湖西二十七名刹第一番。近江西国三十三所観音霊場第三番。関西七福神(大黒天)。 2017/01/07(土)より本堂で、「役行者・前鬼・後鬼」の常時公開が始まったというので出かけた。 「役行者は奈良時代の山岳修行者で修験道の開祖。前鬼・後鬼は役行者が従えていた夫婦の鬼です。この像はもともと大峰山上にありましたが、天明年間(1781-89)に近江へ移され、その後、石山寺の創建の由来や初代本尊の脇侍が修験道の本尊・蔵王権現であることなどの御縁により、寄進されました」(JR西日本のパンフレット『ちょこっと関西 歴史たび・石山寺』より)。 本堂内陣の裏、右手に、枠の上部に八咫烏が彫り込まれた厨子に、彩色の跡が残る役行者、前鬼、後鬼の木像が祀られていた。それらは写実的に、しっかり彫りこまれている。役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、壮年期の様子をしている。端正な顔は少し角張っていて、顎が少しそりだし、口を開けている。その表情は慈悲心を示しているようでもあり、笑みを浮かべているかのようでもあった。 奈良時代、天平宝字五~六年(七六一~七六二)頃の金剛蔵王権現立像の心木も祀られていた。(2017/01) 【石山寺の由緒】 石山寺のパンフレット(2017/01)。 大本山・石山寺/聖武天皇の勅願により天平勝宝元年(749)良辨僧正によって開基され、歴朝の尊崇あつい由緒ある寺院である。西国巡礼十三番の札所。/本堂は縣下木造建築最古のもので、内陣は平安中期。外陣は淀殿の修補になるもの。/本尊観音は勅封になっている。/堂内「源氏の間」は紫式部が「源氏物語」を書いたところと傳え、本堂下の御堂は蓮如上人の母が石山観音の化身だといわれるので、その形見と傳える蓮如鹿の子の小袖を安置している。/多宝塔は美しい均斉美を持った鎌倉期の建築であり、鐘楼・大門は共に鎌倉初期の建立になるものである。/境内の奇岩はいわゆる石山の名の出た石で珪灰石からなり、天然記念物に指定されている。 |
| 2.彦根市 ➀宗安寺 |
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| ➀弘誓山天白院宗安寺…滋賀県彦根市本町2-3-7。浄土宗。 本尊は阿弥陀如来。 彦根城の大手門側、夢京橋キャッスルロードにある。境内に行者堂があり、神変大菩薩の扁額が掲げられており、役行者が祀られている。 精巧な木彫りの像で、洞窟で修行をしている様が描かれている。行者堂の横には、大峯山に三十三度参詣した講の記念碑がある。(1999/04) 朝鮮人街道を稲枝から彦根まで歩いた折に、再訪。行者堂の中はよく分からなかったが、本尊の右にも、玉眼の役行者が祀られていた。木像で、右手に錫杖を持った倚像である。極めて厳しい表情をした、容赦のない顔である。(2017/12) 宗安寺のホームページによれば、宗安寺縁起と行者堂の説明が次のように記されている。 「宗安寺の始まりは、暦応元年(1338)からおよそ10年の間に、足利尊氏、直義兄弟が足利幕府の全国平定を願って、各国に一寺を選んで安国寺の称号を与えた中の、上野国(現群馬県)の安国寺に由来する。 この安国寺はやがて南北朝から戦国時代の動乱で荒廃したが、天正十八年(1590)彦根初代藩主井伊直政公が箕輪(現群馬県箕郷町)の城主となった時、正室東梅院が両親菩提のため、光誉上人を住持としてこれを再興した。 慶長三年(1598)直政公が高崎城主になると安国寺は高崎(現高崎市)に移転、さらに直政公が慶長五年(1600)関ケ原の戦いの勲功で石田三成公の近江佐和山城の城主となると佐和山麓に移り、西軍毛利方の将安国寺恵瓊の名を避け、開基東梅院の父君松平康親公の戒名無月宗九居士の「宗」と母君の戒名心誉理安大姉の「安」をとって「宗安寺」と改められた。 この時の住持成誉典応上人を宗安寺は開山第一世とする。成誉上人は、先祖を在原業平と仰ぎ中世上野国を治めた長野氏の出である。長野氏は武田氏に滅ぼされ領国を奪われたが、武田氏滅亡後その一族の一部は井伊家に仕え、やがて彦根藩の家老となり、宗安寺を菩提寺とした。 慶長八年(1603)宗安寺は彦根城下町の形成に伴い、京橋(京都へ向う橋の意味)御門大手前通りの現在地に移築された」。 行者堂は「修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)神変大菩薩を祀るお堂で、行者講によって守られています。平成十年に道路の拡幅に伴い、現在地に新築したものです」。 |
| 3.近江八幡市 ➀観音正寺 ②岩戸山十三仏 |
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| ➀繖山観音正寺…滋賀県近江八幡市安土町石寺2。天台宗単立。 聖徳太子の開創。西国三十三ヶ所霊場第三十二番。関西・神仏霊場会第百三十九番。近江西国三十三所観音霊場第十九番。 西国三十三ヶ所巡りの石仏の中に、那智寺の石仏に並んで役行者の石仏が祀られていた。(2005/07) |
| ②岩戸山十三仏…滋賀県近江八幡市。 箕作山、太郎坊山、太郎坊宮。 岩戸山十三仏で思いかけず、役行者を祀った小祠に出会った。案内板に、十三仏の磨崖仏の他に、神明大菩薩が祀られているとあった。おそらく神変大菩薩役行者のことだろうと、期待する。聖徳太子が爪で彫ったという磨崖仏は拝観できない。 上を見ると、小祠が見えた。右手の岩戸神明の横から登って、役行者、前鬼、後鬼の石像を祀った小祠にたどり着いた。役行者は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、険しい表情をしている。(2004/01)【写真4】 |
| 4.草津市 ➀志那中相続講の行者堂 |
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| ➀志那中相続講の行者堂…滋賀県草津市志那中町380。 大峯山・竹林院講社・志那中相続講。 「志那三郷藤まつり」で藤の花を見るために出かける。惣社神社の近くにあった。 講の集まりに使われている行者堂は、閉じられていて、中を窺うことはできなかった。(2019/05) |
| 5.甲賀市 ➀飯道神社・飯道寺 |
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| ➀飯道神社・飯道寺…滋賀県甲賀市信楽町宮町。 飯道山(663.9m)の中腹に飯道神社がある。 飯道神社の鏡の大岩の上に役行者の石像が祀られている。行者堂もあるが内部は不明である。 また麓の飯道寺には、役行者の浮き彫りの石像が祀られている。(2002/06) |
| 6.湖南市 ➀善水寺 |
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| ➀岩根山善水寺…滋賀県湖南市岩根3518。天台宗。 湖南三山(長寿寺、常楽寺、善水寺)のひとつ。 「湖国十二坊の森・十二坊温泉ゆらら」に行ったおり、行者堂があるのを知った(2004/10)。そして2007年に再訪した。 行者堂について、岩根山善水寺のホームページでは、次のように記されている。 「行者堂/明治初期神仏分離令により、飯道寺廃寺に伴い、明治9年、同寺岩本院の行者堂を移築し、役行者尊を奉安する。/この行者堂は、元飯道寺岩本院に在り、明治維新に際し飯道寺廃号を被り、明治8年堂宇並びに付随信徒当寺に遷し、明治12年大峰協力講社の許可を得、本堂東側に移築するも、傷み激しく新たに現在地に移転改築する」 善水寺本堂の右手上方に登ると、行者堂があった。神変大菩薩の扁額が掲げられている。 堂内には、半身大の役行者の木像が祀られていた。彩色の跡が見られる役行者像は、右手に錫杖、左手に数珠?経巻?を持った倚像である。(2007/11) |
| 7.高島市 ➀霜降の行者堂 |
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| ➀霜降の行者堂…高島市新旭町旭193。 行者堂は、浄栄寺の北側に隣接している。役行者像は厨子の中に安置されているようであった。(2019/11) |
| 8.東近江市 ➀行者山古墳 ②石馬寺 |
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| ➀行者塚古墳…滋賀県東近江市勝堂町。 13号線、勝堂交差点を東に進む。橋の手前に「殉国士之碑」と「神社」、「地蔵尊」がある。「殉国士之碑」と「地蔵尊」の間の道を南に向かうと右手に行者山古墳がある。 古墳時代後期(六世紀末)に築造された円墳だそうで、その古墳の上には、役行者堂の跡、石造りの台座が残っている。上り口の「大峰山役行者堂」の石柱には、昭和三十五年六月に建立されたと刻まれている。(2009/11) |
| ②御都繖山石馬寺…滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823。 臨済宗妙心寺派。開創は594年。 役行者、前鬼、後鬼の木像。(『役行者と修験道の世界』) 秘宝公開は五月第二日曜から第三日曜。 大仏宝殿に祀られている鎌倉時代に作られた重要文化財の役行者、前鬼、後鬼の木像を拝観した。(2004/01) かつては旧行者堂に祀られていた像である。 役行者像は、右手に細長い杖、左手に数珠を持った倚像である。厳しい修行を乗り越えた様相が見られ、眼光鋭く見つめているようである。 石馬寺のホームページによれば、縁起と歴史は以下の通りである。 【石馬寺の縁起】 今からおよそ1400年前の推古2年(西暦594年)。 推古天皇の摂政であった聖徳太子が「霊地は近江国にある」と占い、駒の蹄に任せて永久に鎮護国家、仏法興隆を祈る道場を求めていました。そして繖山(きぬがさやま)の麓辺りに来ると、駒は歩みを止めて進まなくなり、傍らの松の樹につないで山に登ったところ、瑞雲がたなびく風光明媚な風景が広がっていたのです。聖徳太子は「積年の望みをこの地に得たり」と深く感動して再び山を下ると、松の樹につないだ駒が傍の池に沈んで石と化していました。この奇瑞に大いに霊気を感じ、直ちに山を『御都繖山(ぎょとさんざん)』と名付け寺を建立し、馬が石となった寺、つまり『石馬寺(いしばじ)』と号されたのです。その際に記された聖徳太子直筆『石馬寺』三文字の扁額、及び太子が駒をつないだ松の樹は本堂に安置しております。また、石と化した『石馬』も寺に至る石段下の蓮池に現存しております。霊験として語り継がれる、石馬寺が持つ霊力・霊気をあなたの心や肌で感じて下さい。 【石馬寺の歴史】 石馬寺は聖徳太子の建立以後、法相宗、天台宗と転宗し、近江源氏である佐々木氏の篤く帰依するところになりました。しかし永禄11年(1568)、織田信長の上洛に抵抗した佐々木承禎との戦いによる戦禍を受け、伽藍や院坊のことごとくが信長による兵火に遭い、昔日の壮観を二度と見ることが出来なくなりました。さらに、豊臣氏が天下を取ると寺領及び山林を没収され、山主や僧徒は退散を命じられたのです。 慶長8年(1603)、徳川氏により『石馬寺』が復興。寛永11年(1634)3代将軍家光公上洛にあたり、旧神埼郡能登川町(現東近江市)に造営された御茶屋御殿(伊庭御殿)を移築して大方丈としました(旧本堂)。そして、正保元年(1644)11月、宮城県松島にある瑞巌寺の雲居国師を中興祖として招き、臨済宗妙心寺派の寺院として現在に至ります。 |
| 9.米原市 ➀伊吹山 ②伊吹山松尾寺 ③普門山松尾寺 |
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| ➀伊吹山…滋賀県米原市上野、岐阜県揖斐郡揖斐川町。 役行者、泰澄らが入峰・修行したという。 1989年に伊吹山の八合目に金輪堂が建立され、1991年には、山頂に伊吹山寺山頂本堂(「覚心堂」)が建立された。また伊吹山八合目に行者岩(行道岩、平等岩)があり、1990年に行道岩上行者堂が建立された。 八合目の金輪堂、行者岩(行道岩、平等岩)、行者堂には気がつかなかった。(1995/11、1998/07、2004/01、2015/07) |
| ②伊吹山松尾寺…滋賀県米原市伊吹山二合目。黄檗宗。本尊は弥勒菩薩。 伊吹山表登山道の一合目と二合目の間にある。 白鳳2年(673年)、役の行者の高弟にあたる松尾童子によって開創された伊吹山五護国寺の一つです。 はじめは法相宗で、戦国時代には戦火に合い、元禄8年(1695)年、黄檗宗万福寺の末寺として再興。井伊家の家老西郷氏等が尽力。この寺域は、古い伊吹信仰における「磐座信仰」の故地でもあります。もとは麓にあったが、昭和に入り山腹に移す。(現地の説明板「伊吹山松尾寺の由来」の要旨) (2004/01) |
| ③普門山松尾寺…滋賀県米原市上丹生醒井養鱒場上ル。天台宗。 本尊は十一面観世音菩薩と聖観世音菩薩。通称、空中飛行観音。醒井駅前にある松尾寺政所に安置されている。(2002/05) 近江西国三十三所観音霊場第十三番札所。 伊吹山の観音寺を建立した沙門三修安祥上人の高弟、松尾童子が、役行者の霊地に、十一面観音を本尊として建立したといわれている。 松尾寺の由緒については【滋賀県の山歩き】【松尾寺山】を参照。 松尾寺のホームページ 松尾寺の七不思議 松尾寺山の境内には、鎌倉時代に作られた国指定重要文化財”九重の塔”があり、また以下のような七不思議が今に伝えられています。 (1)ご本尊飛行観音 松尾寺のご本尊は、役(えん)の行者が修行されているときに、雲に乗って飛んでこられたと伝わる飛行観音像(秘仏)で、本堂上の影向石の上に降りられました。 「紫の雲の上よりきますてふ仏の迎ひ松の尾の寺」 (2)影向(ようごう)石 影向石は、仏様が衆生を救うため一時姿をかえて出現されるところです。 松尾寺の影向石は自然にある岩で、その上には仏様の足跡が残っているといわれています。 (3)役(えん)の行者の斧(よき)割水 役の行者がお堂を建てようと、場所を探されましたが、山の上のために水が得られません。そこで、弟子の一人に自然石を斧で割らせると、水がこんこんと湧き出しました。今でも清水が流れ出ています。 (以下略) |
| 10.蒲生郡 ➀雪野山 ②綿向山 |
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| ➀雪野山の行者堂…滋賀県蒲生郡竜王町大字川守。 雪野山(東の龍王山、308.8m)は、滋賀県東近江市と蒲生郡竜王町とまたがる。天神社のすぐ右に登山口があって、天神山古墳群からあずまやを経て雪野山に登るコースがある。 左の古墳を回り込むような道があって、その道に入ると行者堂に行き着く。麓の雪野山龍王寺(天台宗)と関係があるのかもしれない。(2008/12) |
| ②綿向山(1110m)は、滋賀県蒲生郡日野町と甲賀市土山町にまたがる。 日野町の七合目(行者コバ)に行者堂があって、堂内に役行者が祀られており、堂の左横には、役行者の青銅像が祀られている。堂内の役行者像は見ることができなかった。 役行者の青銅像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、眼と口をかっと開き、叱咤するかのようであり、はだけた胸は筋骨隆々としている。(2000/07)【写真5】 【日野観光協会・西大路公民館による案内】 ここは綿向山七合目であり、古くより行者コバと呼ばれ行者堂がまつられている。明治期に現在の登山道が開かれるまでは、この尾根の北の谷であるタカオチ谷を登ってこの行者コバへ取りついた。中世の昔の綿向山は聖なる霊山であり、多くの山伏が修行のために入山をし、この尾根へ登って服装などを整える儀礼を行った場所であることからこの名が生まれた。なお、この付近はブナの原生林で植生上貴重な存在でもある。 |
| 11.犬上郡 ➀西明寺 ②霊仙山 |
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| ➀龍應山西明寺…滋賀県犬上郡甲良町大字池寺26。天台宗。 湖東三山(西明寺、金剛輪寺、百済寺)のひとつ。西国薬師四十九ヶ所霊場第三十二番。関西・神仏霊場会第百三十六番。近江西国三十三所観音霊場第二十三番。(2006/11) 不動明王などの像を祀った本堂後陣(本堂内の後側)に、黒光りする半身大の役行者と前鬼、後鬼の木像が祀られていた。写実的で力強い造りである。役行者は右手に錫杖を持った倚像である。玉眼をかっと見開いたその生き生きとした表情は、すさまじいほどの迫力がある。また足元で役行者を守護する前鬼、後鬼には、寸分のすきもない。 |
| ②霊仙山(1083.5m)…滋賀県犬上郡多賀町大字霊仙。 説明板に、役行者が白鳳9(681)年に開山したとあった。(1997/10、2002/05、2007/06) 三角点と標柱以外何もない。「霊仙寺と霊仙三蔵法師」の説明板がある。この山は霊仙三蔵を生み育てた地であると、おおよそ次のように書いてあった。 霊仙の山頂付近を経塚と呼び、古代の霊仙寺跡であると伝えられている。霊仙山は白鳳9年(681)役行者が開山。霊仙寺は奈良興福寺の末寺として養老元年(717)毘廬舎那如来(大日如来)を本尊として泰澄が開基し、修験行者の聖域となった。 神護景雲3年(769)宣教は山麓に松尾寺など七ヶ寺を建立した。霊仙三蔵はこの地の豪族息長氏丹生真人族の出とされ、松尾寺、霊仙寺で学び、15才で興福寺で得度した。45才で遣唐留学僧として入唐し、仏典経蔵、律蔵、論蔵に精通し、時の皇帝から三蔵の位を受けた。しかし帰国がならず、天長4年(827)唐の五台山で没した。68才であった。(平成13年夏、霊仙三蔵顕彰の会) |
| 12. 写真一覧 |
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| 1 山中の役行者 2 三井寺金堂の役行者、前鬼、後鬼 3 三井寺行者堂前の役行者 4 岩戸山十三仏の役行者、前鬼、後鬼 5 綿向山行者堂前の役行者 |


