| 金山・鬼の架け橋・鐘ヶ坂隧道 2010年3月20日(土)(曇り)単独(16~21℃) |
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| 金山(かなやま)は、兵庫県丹波市柏原町上小倉、丹波篠山市追入にまたがる。標高は540mである。ふるさと兵庫100山に選ばれている。 |
| 金山に登ること、風呂の谷奥の役行者を確認すること、同時に去年10月に鐘ヶ坂公園で役行者を探したが、分からなかったので、それを確認することが目的で出かけた。鐘ヶ坂隧道の役行者は、法道仙人であった。 |
| 追入登山口=10:58(266m) 駐車スペース。 「愛宕山」「大神宮」の二つの 石灯籠がある。 準備をしていると、 先に夫婦1が登っていった。 しばらくして出発。 赤坂山観音堂=11:01~11:05(288m) (19℃) 鐘撞き堂。 金山、鬼の架け橋まで1000m。 稲荷大神社址の石碑 石の鳥居=11:10(337m)(18℃) 上部の石が崩れそうである。 大乗寺分岐1=11:22(440m)(16℃) NHKアンテナ。 金山、鬼の架け橋まで600m。 分岐2=11:26(462m)(15℃) 園林寺跡=11:29(490m)(16℃) 簡易トイレ=11:31 園林寺跡を左に見て、正面の奧にある。 簡易トイレの後、山腹道を左に下る。 役行者=11:33~11:36(479m)(16℃) 風呂の谷奥の役行者。 石祠に、役行者の石像が祀られていた。 園林寺跡=11:38(491m)(16℃) 金山城馬場跡=11:41(511m)(16℃) 三月体観測地点。 分岐3=11:44(515m)(15℃) 鬼の架け橋は左へ100m、 トンネルへは右、 金山城跡へは真ん中の道を150m。 岩=11:47~11:48(544m)(17℃) 金山=11:50~11:53(554→540m) (17℃) 537m。 金山城跡本丸跡。風が強い。 少し下ったところで、 夫婦1が昼食を摂っていた。 【金山城物語】(説明板)は、 この項の末尾参照。 鬼の架け橋=11:55~12:00(521m)(18℃) 柏原分岐=12:02(509m)(16℃) 分岐3=12:03(501m)(16℃) 金山城馬場跡=12:04(499m)(16℃) 三月体観測地点。 園林寺跡=12:06~12:08(479m)(16℃) 分岐2=12:10(452m)(17℃) 大乗寺分岐1=12:13(432m)(17℃) NHKアンテナ。 追入登山口分岐。 登山口=12:23~12:24(276m)(18℃) 別の夫婦が登っていくところだった。 大乗寺=12:26~12:29(282m)(20℃) 大寶山大乗寺。高野山真言宗。 【大乗寺】については、 この項の末尾参照。 登山口=12:31 仁王門 12:35(271m)(19℃) 分岐4=12:44~12:46(257m)(21℃) 「金山周辺イラストマップ」の看板が ある。南(右)へ。 追手神社=12:49~13:04(261m)(20℃) 千年もみ。アズマイチゲなどの群生地。 分岐4=13:06 追入登山口=13:12(274m)(21℃) 駐車スペース。 (01:35/02:14) |
| ※以下は、鐘ヶ坂隧道の散策? 追入登山口=13:24 駐車スペース。車で移動。 追入交差点 鐘ヶ坂トンネル南口=13:27~13:30 通行止め。駐車スペース。 トンネルの上に「萬古清風」の扁額。 鐘ヶ坂公園に行くつもりであったが、 道を間違えた。 さらに車で、公園に向かう。 追入交差点 すぐ右手に追入神社があるので、 寄ってみる。 追入神社=13:33 追入交差点 鬼の架け橋展望所=13:36 確認できた。 右の岩が角のように立っている。 鐘ヶ坂公園=13:43 駐車場。 明治のトンネル(遊歩道)940m。 ここで車を停めて、歩く。 (徒歩) 遊歩道入口 明治のトンネル830m。 公園から遊歩道に入る。登り坂である。 鐘ヶ坂トンネル北口=13:48 通行止め。明治のトンネル600m。 鐘ヶ坂峠登山口 古道。夫婦1と出会う。 昼食を摂っていたときに 下っていった人だということで、 お互いに確認。 柏原に向かうつもりだったが、 尾根を間違えて下りてきて、 現在地がよく分からないようだった。 下れば鐘ヶ坂公園だと教える。 先に明治時代に作られた鐘ヶ坂隧道が あって、そこに行くところだというと、 見てみたいといってついてきた。 鐘ヶ坂隧道北口=14:00~14:11 「鑿山化居」の扁額。 【鐘ヶ坂隧道】の説明板については、 この項の末尾参照。 役行者の石像が祀られているとの 情報があったが、法道仙人であった。 鐘ヶ坂隧道南口にあるのかも 知れないと思い、確認のために そちらに向かうことにする。 夫婦1は先に下山した。 鐘ヶ坂峠登山口=14:15(294m)(21℃) 鐘ヶ坂トンネル北口=14:20 通行止め。 鐘ヶ坂公園=14:26 駐車場。夫婦1が休んでいた。 ここから柏原駅まで車道歩きになる。 車で移動。 追入交差点 トンネル南口=14:30(299m)(19℃) 鐘ヶ坂トンネル南口。 通行止め。駐車スペース。 ここで車を停めて、歩く。 南口に戻り、地道の側道を上がる。 (徒歩) 隧道南口=14:35~14:40(320m)(19℃) 鐘ヶ坂隧道南口。 「事成自同」の扁額。 すぐに到着したのでほっとした。 役行者の像も何もなかった。 トンネル南口に戻る。 鐘ヶ坂トンネル南口=14:43 通行止め。駐車スペース。 役行者の情報は間違いだと 確認したので、帰ることにした。 |
| 【金山城物語】(説明板) 天正六年(一五七八)二月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀反を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年三月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。 秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には天正三年(一五七五)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げ帰った苦い思い出があったからです。 光秀は、秀治と赤井氏の連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断する格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正七年(一五七九)六月ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。 |
| 【大寶山大乗寺】高野山真言宗。(ホームページ「Look篠山」より) 大山宮に鎮座する追手神社の後方山麓にある寺院で、中世大山荘の熊野信仰の中心になった。寺伝によれば、白鳳時代(645~710)に法道仙人によって開かれたという。はじめは金山の山上にあり、十二坊が立ち並ぶ天台宗の名刹であった。熊野修験道の丹波における拠点として続き、文安五年(1448)に起こった大地震で全壊、山上から現在地に再建された。/中世、大山村の国人領主であった中沢氏が保護を加え、最盛期には二十坊を数えるまでになった。しかし、天正六年(1576)、丹波を攻めていた明智光秀は、氷上郡と多紀郡を分断するため金山に攻め寄せた。このとき、大乗寺の僧兵も中沢氏とともに明智軍と戦ったが、敗れて寺域はことごとく焼失した。その後、慶長二年(1597)、廻国僧快祐の勧進によって薬師堂と庫裏が再建され、真言宗高野山宝城院末となった。快祐は千日護摩供養を行い、静かに入定したという。そして、その入定塚が楼門の手前の山裾にあって、「千日様」と呼ばれて篤い信仰を集めている。/江戸時代には大乗寺末が追手神社の神宮寺であった。付近には「別れじの橋」「加祢が坂」など、大乗寺と関わりのあった修験者、熊野比丘尼が流布したらしい和泉式部伝説が分布、式部の墓も伝来している。 |
| 【鐘ヶ坂隧道】の説明板 鐘ヶ坂隧道は交通の難所で通行や物資の輸送は困難を極めていた。/……/総工費は四万余円、鑿岩工夫はのべ六万三千人に及んで完成をみた。その工事費の半額は、多紀・氷上両民の寄付でまかない二年十ケ月を要して明治十六年(一八八三)に完成した。/日本で五番目に作られたトンネルで、レンガ積みとしてはわが国最古である。/麓の柏原上小倉で三基の窯が作られ、鹿児島からやってきた職人がレンガを焼き約二十八万枚の煉瓦が使われている。/篠山市側坑口には、明治維新の立役者有栖川宮熾仁親王の「事成自同」、丹波市側には政治家三条実美の「鑿山化居」の石造扁額が掲げられている。延長二六八メートル、幅4.5メートル。 |