三草山・播磨

三草コース・三草山・鹿野コース・朝光寺・掎鹿寺
2011年3月19日(土)(晴れ)単独(14~21℃)
 三草山(みくさやま)は、兵庫県加東市上三草。423.9mで、二等三角点(点名)が設けられている。播磨小富士という。ふるさと兵庫100山に選ばれている。
 中国自動車道を滝野社ICで降りて、三草登山口に着いたのが10時半であった。すでに何台もの車が停めてある。ゆっくり準備する。
 駐車場の環境省・兵庫県の案内板には、次のように説明があった。
「三草山は、標高423.9m、寿永3年(1184)源義経が三草山西の山口に陣取る平資盛を夜襲した『三草山合戦』で有名な山です。現在は、畑・三草・鹿野と3ヶ所の登山道がつき、……山頂には京都北野天満宮から勧請した三草山神社が建てられ、明石海峡大橋や淡路島を一望できます」
三草登山口(100m)=10:50(100m)(19℃)
  駐車場。
(三草コース)
  眼前に193mの山がある。
  それを越えても行けそうだが、
  ガイドに従って、
  舗装道路を左から回り込む。
二つ目の道標=10:55(116m)(18℃)
鞍部=10:59~11:00(136m)(17℃)
  193mの山を越えて来ると、
  ここで出会いそうだ。
  暑いので、上着を脱ぐ。
ベンチ=11:13(248m)(19℃)
  なぜか足が重い。
277m=11:18~11:20(281m)(19℃)
  一呼吸休む。
ピーク=11:38(377m)(19℃)
ピーク=11:40(388m)(19℃)
九合目=11:45(411m)(16℃)
三草山=11:48~11:59(433→424m)(18℃)
  423.9m、二等三角点。
  九合目から一足で山頂である。
  登山道は、ほとんど直線的である。
  三組ほどの登山者がベンチに休んでいた。
  三草山神社の祠、展望盤などがある。
  展望はよい。南向きの下山道を下る。
「三草古道」分岐=12:02(406m)(16℃)
  テープのある三草古道を右に分けて直進。
畑コース分岐=12:03(405m)(16℃)
  掎鹿寺から続く「義経道」でもある
  畑コースを左に分けて、
  鹿野コースを下る。
(鹿野コース)
鞍部=12:09(347m)(14℃)
  テープのある
  「9つの炭焼跡と山桜コース」を
  右に分けて直進。
ピーク=12:12(381m)(14℃)
ピーク=12:16(380m)(18℃)
  4人が食事をしていた。
  平坦な尾根道が続く。
ピーク=12:24(328m)(19℃)
ピーク=12:30~12:33(310m)(19℃)
  天狗岩(304.4m)? 
  ピークの手前にベンチがあって、
  4人が休んでいた。
  昭和池に向かって下る。
ピーク=12:47
  左に向かう。
石の鳥居=12:50~12:52(220m)(20℃)
  三草山神社。
  平成六年に建てられた鳥居である。
標識=12:59(120m)(21℃)
  「至三草・昭和池」の標識。
  鹿野登山口分岐。
  「鹿野コース」の標識の裏に
  「至三草・昭和池」の標識があった。
  すぐ先で、左に池があったので
  立ち寄ってみる。
昭和池=13:10
  池を半周する。
  ときどき池畔に下りてみる。
  歩いてきた周囲の山が結構大きく見える。
三草登山口=13:33(107m)(20℃)
  駐車場。
    (02:24/02:43)
 帰途、朝光寺、一之宮神社、掎鹿寺・大乗院・南蔵院に立ち寄った。
【朝光寺】
 本堂保存修理工事中(平成23年2月21日~平成24年8月20日)で拝観できなかった。
 「朝光寺は、法道仙人の開祖と伝えられ、国宝の本堂は、細部に和洋・唐様の折衷様を呈した方七間の堂々たる建造物で、室町時代初期の建築と言われています。毎年5月5日には、勇壮な鬼追踊(県指定無形民族文化財)が奉納されます。」(三草登山口の環境省・兵庫県の案内板)
【掎鹿寺】
 掎鹿寺本堂の左手に、不動明王と役行者の石像が祀られていた。
 掎鹿寺は、「推古帝2年(594)に聖徳太子によって創立、のち神亀2年(725)僧行基が堂塔を修復したと伝えられています。その後度重なる災禍にもめげずそのつど復興しましたが、明治初年の失火により、多宝塔、鐘楼及び塔頭の大乗院、南蔵院の二か寺を除いてすべて焼け失せました。明治16年に本堂を再建しています。」(三草登山口の環境省・兵庫県の案内板)
 「掎鹿寺は、推古帝2年(594)に聖徳太子によって創立と伝えられています。寺伝によると、太子がこの地に来駕された時、負傷し死に瀕した白い鹿を見て薬師如来に祈願したところ、傷がたちどころにいえたことから山号を白鹿山として、薬師如来の聖像を彫って安置したと伝えられています。のちに僧行基が堂塔を修復したと言われており、寺は白鹿山掎鹿寺として栄えました。また、大乗院の北側から掎鹿寺に通じる道は、源平三草山の合戦後に一の谷をめざし、義経主従が通った道で、『義経道』と呼ばれています。」(掎鹿寺と大乗院の間にある環境省・兵庫県による「掎鹿寺周辺」の案内板)