| 船岡山・外廻山・十三仏・小脇山・箕作山・赤神山・太郎坊宮 2004年1月9日(金)(晴れ)二人(7~12℃) |
|---|
| 船岡山は、滋賀県東近江市糠塚町と近江八幡市安土町にまたがる。標高は152mである。 小脇山は、滋賀県近江八幡市安土町と東近江市小脇町にまたがり、標高は373.4mである。三等三角点(点名は老蘇)が置かれている。 箕作山(みつくりやま)も、滋賀県近江八幡市安土町と東近江市小脇町にまたがる。標高は372mである。 赤神山(あかがみやま)は、別名を太郎坊山という。滋賀県東近江市小脇町に位置する。標高は350mである。近江百山。 |
| 先に、石馬寺に行って、鎌倉時代に作られた重要文化財の役行者、前鬼、後鬼の木像を見て、八日市駅に来た。車をラピュタの二階の駐車場に停めて、八日市駅から近江鉄道で市辺駅に行く。 岩戸山十三仏で思いかけず、役行者を祀った小祠に出会った。登山道は整備されていて、昨日降った雪が、稜線の所々に残っていた。 |
| 近江鉄道市辺駅・・・・・11:53(146m) 阿賀神社・・・・・・・・11:58~12:02(147m)(10℃) (歌碑道) 万葉歌碑 船岡山(152m) ・・・・・12:04(160m)(9℃) 稲荷社・・・・・・・・・12:06(164m)(11℃) 糠塚 外廻山登山口で、年配の男性に ここを登ればどこに行くのか と聞いたが、要領を得ない。 岩に紅白の布が巻いてある。 とりあえず登ってみる。 外廻山(175m) ・・・・・12:25~12:26(211m)(12℃) 頂上には、外廻山龍神が祀ってあった。 紅白の布が巻いてあった。 その先を下りかけたが、 十三仏登山口から遠くなりそうなので、 同じ道を引き返す。 外廻山登山口・・・・・・12:32(149m)(10℃) 十三仏登山口・・・・・・12:40 空腹に耐えかね、前方に見える それらしい施設に向かう。 安土町の施設 昼食。うどんとカレー。 公共の施設なので安かった。 外廻山には、名古屋方面から 信者がバスでやって来て、 参拝するという。 また岩戸山(兜山)の岩上では、 かつて米相場の連絡に、 旗振りが行われたといった話を聞く。 十三仏登山口・・・・・・13:20(154m)(9℃) 案内板に、十三仏の磨崖仏の他に、 神明大菩薩が祀られているとあった。 おそらく神変大菩薩役行者のことだろう。 参詣道は、自然石の階段が続く。 やはり所々紅白の布が巻いて、 石を祀っている。汗がにじむ。 男性が一人下ってくるのに出会ったが、 参拝者のようだ。 十三仏・・・・・・・・・13:42~13:54(347m)(13℃) 聖徳太子が爪で彫ったという 磨崖仏は拝観できない。 上を見ると、小祠が見えた。 右手の岩戸神明の横から登ると、 役行者、前鬼、後鬼を祀った 小祠にたどり着いた。 岩戸山(兜山)・・・・・13:57(378m)(12℃) 十三仏から先に進むと、分岐があって、 そちらが岩戸山頂上である。 かつて米相場の連絡に使われた 岩上である。いわゆる旗振山。 立ち寄る。 小脇山(373.4m) ・・・・14:05(429→374m)(9℃) 三等三角点。 この辺り前後する稜線上には、 雪が残っていた。 箕作山(372m) ・・・・・14:20~14:22(374m)(9℃) 箕作山城址分岐・・・・・14:29(358m)(7℃) 太郎坊宮分岐・・・・・・14:30(340m)(11℃) 延命公園分岐・・・・・・14:31(325m)(10℃) 墓地の横を通る。 瓦屋禅寺・・・・・・・・14:37~14:47(296m)(7℃) 聖徳太子創建の寺院である。 【この項の末尾参照】 静かである。 延命公園分岐・・・・・・14:51(322m)(8℃) 太郎坊宮分岐・・・・・・14:53(339m)(9℃) 太郎坊宮分岐・・・・・・14:58 最初のピークから少し先に進んで、 回り込むように登ると、 赤神山(太郎坊山)頂上である。 赤神山(太郎坊山)・・・15:02~15:05(357m)(12℃) 眼下の展望を楽しむ。 また樹間から伊吹山が見えた。 太郎坊山分岐・・・・・・15:08(320m)(7℃) 太郎坊宮・・・・・・・・15:18(243m)(11℃) 結構、参拝者がいた。 参道の740段の石段をどんどん下る。 成願寺・・・・・・・・・15:28(133m)(9℃) さらに階段を下る。鳥居を左折して、 車道を歩けば八日市駅である。 延命公園・・・・・・・・15:45(115m)(9℃) 近江鉄道八日市駅・・・・15:50(124m)(10℃) (02:45/03:57) |
| 【石崎山瓦屋寺】本尊は千手観音。臨済宗妙心寺派。滋賀県東近江市建部瓦屋寺町436。 説明板の紹介は一部以下の通りである。 臨済禅宗妙心寺派 瓦屋寺(かわらやじ) 当寺は寺伝によると聖徳太子が四天王寺建立に際し山麓の土を採って瓦十万八千枚を焼かせてその用に供した後この地に一寺を建立して瓦屋寺と号されたのが始まりと伝えます。四天王寺の瓦はともかくとして当山麓で早くから瓦が焼かれていたことは事実で旧表参道の階段登り口付近では白鳳時代の瓦窯の跡も発見されており、おそらくは箕作山麓にて瓦製造に携わっていた百済から渡来した人々の菩提寺が始まりであったと考えられます。(以下略) 瓦屋禅寺のホームページによれば、縁起は次の通りである。 瓦屋禅寺縁起 寺伝曰く聖徳太子(厩戸皇子)が摂津(大阪)四天王寺建立する際に瓦を作製する為に、蘇我大臣と小野妹子に命じて良質な土を求められ、この山中の土が粘土質で瓦を作製するのに適していた。太子曰く「四神相応の霊土なり」と申され、渡来人の力を借りて瓦を10万6000枚以上作らせ、山頂へ太子が斧で一刀した十一面の千手観音像を祀り「瓦寺」を建立したのが始まりとされる。草建時には太子の勅許により太夫頼賢なるものが出家し、その子7人もこの寺へ住したとされる。 その後約300年を得て寛平3年(891)には東大寺末寺として華厳宗となり源仁僧都により伽藍を再建し「瓦屋寺」として再興された。一山僧房二十四宇、宗徒十六口を数えたと「東大寺三綱記」に記してある。 永禄11年(1568)には観音寺城の戦いにより支城であった箕作山城を織田信長率いる木下藤吉郎(豊臣秀吉)が攻め入り、その戦の兵火により罹災し惜しくも堂宇は悉く焼失しました。この時は比叡山の影響で天台宗であったとされております。辛うじて千手観音像、四天王像は焼失を免れ、その後文禄年間には荒廃していたとされ世の無常さを感じさせましたが、正保2年に八日市(現東近江市)に奥州伊達家の飛び地がある関係で松島瑞巌寺中興開山雲居希膺禅師の高弟である香山祖桂禅師が荒廃した瓦屋寺の姿を嘆き、その晩に天女(弁天)の霊夢を見られ再興を誓い、師である雲居禅師の篤志者であった福原茂右衛門を願主に彦根藩井伊家次席家老庵原朝真公より内陣法器等を備え釣鐘堂を建立し臨済宗妙心寺派の一寺として「瓦屋禅寺」として中興された。 香山禅師の生涯は宮城県三迫に生まれ吉岡天皇寺にて得度し、雲居禅師に師事し近江の地へ27歳より74歳で亡くなるまでの50年近い年月を瓦屋禅寺中興事業に御尽力された。四方より修行僧が訪れその教えは広く伝わり、疫病にご利益がある太子御作の千手観音像は流行り病に大変霊験あらたかになり全国津々浦々より参詣者が溢れたとされます。その中に越後十日町(現新潟市)にて酒屋の商いをしていた水野五右衛門の娘が天然痘に患い、嘆き祈祷を受け回復されたことから水野家の篤志により現在の本堂が延宝年間には再建されたと伝わります。 現在は平成30年4月に国登録有形文化財として本堂・庫裡・地蔵堂・開山堂・経堂・賓頭盧堂・鐘堂の7棟が指定され、江戸時代には近江西国第18番霊場にしてされ、聖徳太子霊跡第30番、近江聖徳太子霊跡の札所に指定され多くの参詣者が訪れ賑わいます。 |