西国街道

西国街道
 Ⅰ 門戸厄神・西国街道・北伊丹
 Ⅱ 門戸厄神・西国街道・コスモス園・大鹿東口
 Ⅲ 立花・水堂古墳・武庫之荘・門戸厄神・西国街道・広田神社・さくら夙川
 Ⅳ 西宮・西宮神社・芦屋
 Ⅴ 摂津本山・住吉川・西国街道・JR摩耶
Ⅰ 門戸厄神・西国街道・北伊丹
2021年5月30日(日)(晴れ)二人(26~31℃)
 炎天下の街歩きはつらい。門戸厄神から伊丹方面の西国街道である。最後に、伝和泉式部の墓に立ち寄った。
阪急門戸厄神駅=12:27(20m)(26℃)
  「旧西国街道」の標識に従って歩く。
(旧西国街道)
辻の地蔵=12:40
  立派な祠に石造の地蔵尊が祀られている。
新幹線手前の右折地点=12:46
阪神水道企業団
新幹線高架下=12:49
  くぐる。
甲武橋西詰=13:00(35m)(27℃)
  「こうぶばし」を渡る。
甲武橋東詰=13:05
  武庫川を上流へ。
髭の渡し=13:10
  河川敷の行者堂に役行者が祀られている。
武庫北小学校=13:16(30m)(29℃)
髭茶屋=13:18
  説明文は、この項の末尾参照。
師直冢=13:30
  説明文は、この項の末尾参照。
閼伽井公園=13:40
  閼伽井の井戸(伊丹市寺本1丁目)
  「『あかい』とは梵語で”水”特に仏前に
  供える水のことを言い、昆陽寺付近の地を
  閼伽井と呼んだことから、この井戸を
  『閼伽井の井戸』と呼びました」。
  昆陽寺旧参道へ。
崑崙山正覚院=13:45
昆陽寺=13:51~14:11(40m)(29℃)
  真言宗。本尊は薬師如来。
  天平5年(733)、行基の開創。
  西国薬師第十九番霊場。
  川邊西国第十番霊場。
  摂津国八十八ヶ所第六十二番霊場。
  伊丹七福神。
  境内に、役行者の石像が祀られていた。
西天神社=14:20~14:21
  伊丹市昆陽8丁目。
  「西天神社は東天神社(昆陽4丁目)と
  ともに昆陽村の氏神として親しまれて
  きました。(以下略)」
  昆陽宿の説明は、この項の末尾参照。
長勢橋=14:29
  伊丹市昆陽6丁目。
  「元治元年(1864)の蛤御門の変で敗走
  した長州勢が、ここで踏み止まって戦った
  といわれています。『長勢橋の碑』は南側
  の長勢児童遊園地内に立てられています」
稲野小学校=14:34
伊丹署
  左折。昆陽池へ。
昆陽池=14:48~15:15(45m)(30℃)
伊丹署
千僧天神社=15:25~15:28(45m)(27℃)
大鹿桜ヶ丘=15:37
  伊丹市桜ヶ丘8丁目。
  大鹿村と千僧村の境界。
有馬街道道標=15:40
  道標の四面に「すぐ京」
  「すぐ中山・有馬」「すぐ西宮」
  「すぐ大坂」と記されている。
大鹿東口=15:47
伝和泉式部墓=15:56~15:58(50m)(31℃)
辻の碑=16:04
  多田街道。
JR北伊丹駅=16:20(35m)(31℃)
    (03:00/03:53)
【西国街道・髭茶屋】
 この説明板の前の道筋は、西国街道の旧道です。西国街道は東海道伏見宿から分かれ、山崎・芥川・郡山・瀬川・昆陽の5宿を経て西宮宿に至る街道で、京街道とも山崎通りとも呼ばれた江戸時代の主要街道の一つでした。この街道は古くから利用されており、人々の往来も多い幹線道路です。街道の一つ宿駅の前後中間には小駅が設けられ、人足等が杖を立てて休息する立場が作られています。立場には茶屋が置かれ、ここには正規の宿駅に泊れない臨時の客を泊める施設も認められていました。髭茶屋は街道筋に店を開いていた西昆陽の茶屋の一軒です。茶屋ではぞうり・わらじの他、酒・一膳めし・菓子などが売られていました。
 髭茶屋の地名のおこりは、天明8年(1788)に安兵衛さんと徳右衛門さんの二人が茶屋を経営しておりました。当時、安兵衛さんは立派な髭を蓄えていましたので、髭茶屋の安兵衛さんと呼ばれるようになりました。左上の絵図は、長州藩主のお国入りの道中に見聞録を書き加えた「行程記」です。髭茶屋の説明に「茶屋の犬が旅人の往来のたびに、茶屋の菓子をほえてねだり、買い与えると吠き止まる」とほほえましい一面も伝えられています。/尼崎市教育委員会
【師直塚】
 足利家の武将高師直は、観応二年(一三五一)上杉能憲勢の待伏に遭い、この地において、子息五郎、弟師泰と共に討たれ、高一族は滅ぶことになった。
 高師直は、南北朝時代の武将で足利尊氏が上洛の折、すでにその側近にあり、足利家の執事として、北畠顕家を倒し、河内の南朝軍を弟師泰とともに制圧し、楠木正行を敗死させるなどの功績があった。
 師直らの没後、この辺りに墓らしき塚が残っていた。いつしか耕作の妨げになるとしてくずされたが、師直らの魂をしずめるため、大正四年、山田村の有志により現在の師直塚が建碑された。その後、国道の拡張工事などによりこの場所に移された。
  平成五年三月一日
           伊丹市教育委員会
【西国街道】
 京の都と西日本を結ぶ西国街道は、京都・東寺の門前を起点とし、大阪府下を経て下河原で伊丹市域に入ります。猪名川を渡り、北村~大鹿~千僧~昆陽~寺本の各村を通過し、武庫川を渡って西宮神社にいたり、さらに西へと伸びています。
 江戸時代、京都から西宮へいたる街道には、淀川右岸に沿った大坂回りの道筋が本街道とされていました。しかし、距離的に短く、洪水などの災害も少ない西国街道は、急ぎの旅や大名の参勤交代通行路としてよく利用されました。(以下略)

【歴史街道・昆陽宿】
 江戸時代の昆陽村は西国街道の宿駅でした。
 村内は、東町・中町・大工町・市場町・辻町・佐藤町・小井之内の7町からなり、人馬継問屋には、御用通行の役人や旅人の荷物の継ぎ立てを行う人馬が用意されていました。(中略)
 宿駅の人々の負担によって成り立っていたこのような交通制度は、住民に大きな経済的負担を強いることが多かったため、幕府の許可のもとに、年月を限って御定め賃銭の割り増しが行われることもありました。
 長い年月にわたり、御用継ぎ立てを担ってきた昆陽宿は、明治5年(1872)8月、江戸時代の宿駅制度が廃止されるとともにその任務を終えました。
Ⅱ 門戸厄神・西国街道・コスモス園・大鹿東口
2021年10月22日(金)(晴れ後雨)二人(19~25℃)
 武庫川河川敷のコスモス園を見に出かけた。そして西国街道を大鹿東口まで歩いた。
阪急門戸厄神駅=12:05(25m)
(旧西国街道)
辻の地蔵
阪神水道企業団
  甲武橋手前で、武庫川河川敷に下る道を
  探しながら、北の方に向かう。
  【西国街道(1)】の説明については、
  この項の末尾参照。
  報徳学園から武庫川新橋まで行ったので、
  時間がかかってしまう。
  結局、対岸に渡るために、
  河川敷を甲武橋に戻る。
甲武橋西詰=13:21(35m)(25℃)
甲武橋東詰=13:26
【コスモス園・髭の渡し】
  【髭の渡し】は、この項の末尾参照。
  河川敷に行者堂があって、
  役行者の石像が祀られている。
武庫北小学校=14:26
髭茶屋
師直冢
閼伽井公園=15:00~15:03(40m)(21℃)
  昆陽南公園。
昆陽寺=15:15~15:22(40m)(22℃)
  役行者石像。
西天神社
長勢橋
稲野小学校=15:47(40m)(21℃)
伊丹署=15:51(40m)(19℃)
  時間がないので、昆陽池へは行かず。
千僧天神社=15:55~16:03
  雨が降る。
  ザックカバーをし、傘を差して歩く。
大鹿桜ヶ丘
有馬街道道標=16:17(45m)(19℃)
大鹿東口バス停=16:42
  バスの時刻表を見ると、
  ちょうど予定時間だった。
  JR北伊丹駅まで歩いてあと30分。
  バスが発車時間より早く来るはずがないと
  いうことで待つことにした。
  10分遅れの阪急バスで阪急伊丹駅へ。
   (04:18/04:37)
【西国街道(1)】
 京都・東寺の西、羅城門を起点とする西国街道(京街道)は平安時代の延長年間(九二三~九三〇)にできたといわれる。
「髭の渡し」を渡って段上村に入った旅人はこの付近にあった石橋を渡った。古地図には裏堀石橋とある。古老によると、そこにはこんこんと清水が湧き出ていたという。
この道はさらに鯨池上水場から上大市五丁目と段上町八丁目の境の道を南に下がり、山陽新幹線をこえる。そこに百間樋石橋があった。
道は阪神水道企業団の甲東事業所の地で切られているが西南へと続く。
          甲東文化財保存会
【西国街道・髭の渡し】
 この付近には江戸時代に武庫川を越える西国街道の渡し場がありました。街道沿いの西昆陽村に髭をはやした老人が営む茶屋があったことから「髭の渡し」と名づけられたといわれています。江戸幕府の命令によって文化3年(1806)に作られた「山崎通分間延絵図」を見ると、武庫川の河原をはさんで街道の道筋が両岸の堤のところで途切れていますが、ここに渡しがありました。渡し場の様子は描かれていませんが、尼崎側の街道沿いに「髭茶屋」や「立場(人足が休息する所)」と注記された建物が描かれています。
 この渡しでは東から西への川越えは常松村と西昆陽村の2カ村が月番で受け持ち、西から東への川越えは、段上村、上大市村、下大市村(いずれも現在は西宮市)の3カ村が月番で受け持っていました。例年10月中旬から翌年春の彼岸までは、板橋が架けられ、水量が増した時には人足の肩越えによる渡しが行われていましたが、後には船での渡しが行われるようになりました。
 参勤交代の大名や往来の旅人など数多くの人々に利用されてきたこの渡しは、明治の終わりに下流に甲武橋が架けられ、西国街道の新道(現国道171号線)ができるまで続きました。
     兵庫県西宮土木事務所/尼崎市
Ⅲ 立花・水堂古墳・武庫之荘・門戸厄神・西国街道・広田神社・さくら夙川
2021年2月8日(月)(曇り)三人(8~11℃)
 水堂古墳を見た後、門戸厄神に移動し、広田神社に向かって、以西の西国街道を歩いた。
JR立花駅=11:55
須佐男神社・水堂古墳=12:07~12:23
  【水堂古墳】は、この項の末尾参照。
  水堂古墳内部の展示を拝観。
  須佐男神社の鳥居の下のロウバイが
  盛りであった。
大井戸古墳=12:45~12:48
武庫之荘=12:56~13:06(10m)(11℃)
(阪急)
西宮北口=13:09~13:18
門戸厄神=13:19~13:28(15m)(11℃)
  【西国街道(5)】と【厄神道標】の
  説明板については、この項の末尾参照。
(西国街道)
  具足塚古墳が分からなかった。
広田神社=14:01~14:19(30m)(8℃)
  【由緒】については、この項の末尾参照。
  以前訪れた時は、工事中であったが、
  整備されていた。
西宮駅分岐=14:55~14:57(15m)(9℃)
  金津山古墳、阿保親王墓古墳を経て
  芦屋駅に向かう予定であったが、断念。
  JR高架をくぐらず、線路沿いに歩く。
JRさくら夙川駅=15:16(15m)(10℃)
   (02:23/04:26)
【水堂古墳】
 この古墳は、南北に主軸をおく古墳時代前期の前方後円墳です。すでに前方部については原形が著しく損なわれているが、全長約60m、後円部径約30mを測る前方後円墳です。昭和37年に発掘調査が行われ、後円部から粘土槨に覆われた長さ約9m、幅約0.7mの割竹形木棺が見つかりました。木棺の内側には一面に朱が敷かれ、中央部に骨粉状になった人骨と歯があり、その両側に鉄刀2本、短剣1本が置かれ、足もとの位置には鉄槍1本がありました。頭部には、三角縁三神四獣鏡(径23cm)・胡籙(矢筒)などの副葬品がおかれていました。これらの遺物を昭和60年3月30日に尼崎市指定文化財に指定しました。
          尼崎市教育委員会
【西国街道(5)】
西国街道はここから広田村に入り、四十谷川石橋を経て、豊乗寺の北を通る川土手をのぼり御手洗川を渡って廣田神社の馬場先に至っていた。今川了俊が九州赴任の後、通行した街道の様子を書いた紀行文、「道行きぶり」の中に「川面に沿いて木深く物ふりたる山あり、鳥居立ち沿いたり」と当時の御手洗川と廣田神社について書いている。
           甲東文化財保存会

【厄神道標】
この道標は、むかし西国街道と有馬街道といったふたつの旧道の分かれ道に建てられている。道標をよくちゅういしてみると四面の刻字のうち指向手形の下の字体と他の三面の字体が異なっている。道標には文久二年再建と刻字されていることから、指向手形のある日本三躰厄神明王と刻字されていた道標を何かの理由で文久二年に再建されたと考えられる。従って、この道標自身は古くおそらく江戸中期のものと思われる。
           甲東文化財保存会
【廣田神社の御由緒】(境内の説明板)
御祭神
御本殿 天照坐皇大御神の荒御魂
御脇殿 住吉三前大神 八幡三所大神
    諏訪建御名方大神 高皇産霊大神
御創祀
神功皇后摂政元年(西暦二〇一年)、国難打破の道を示し、八幡大神の御懐妊を告げ安産を守護し、軍船を導き、建国初の海外遠征に勝利を授けた、廣田大御神の御神誨により、御凱旋の帰途、御心・廣田の國に国土安泰・外難の守護として御創祀されたことが、我が国最古の国史書『日本書紀』に記されています
(以下略)
Ⅳ 西宮・西宮神社・芦屋
2021年5月4日(火)(曇り)三人(22~26℃)
 西国街道として西宮神社を確かめたかったのと、百済からの機織姫の伝説の地を見たかった。
JR西宮駅=14:15(5m)
松原神社・天満宮=14:26~14:37
  菅原道真が、延喜元年、藤原時平の
  そしりによって、九州筑紫に下る時
  この地に休泊された。同三年に太宰府で
  薨去。後に祠を奉ったのが松原天満宮の
  始まり。
  漢織呉織の松。
  4世紀頃、呉の国から迎えられた漢織、
  呉織という二人の織工女が、武庫の港に
  上陸し、この辺りの松原で休息したが、
  その時に、傍らの松に身を寄せて、
  はるかな故国を偲んだという。その身を
  寄せた松がかつてあったという。
津門神社・昌林寺=14:49~15:10
  【津門神社の由緒】については、
  この項の末尾参照。
福祉センター(2m)=15:20(10m)(26℃)
  西宮市総合福祉センター。
西宮神社=15:37~15:50(10m)(22℃)
医王山圓満寺=15:55~16:00
  成田山。
  境内の神変大菩薩の石塔の石龕に、
  役行者が祀られている。
金津山古墳=16:40~16:45(15m)(25℃)
  【古墳】の説明は、この項の末尾参照。
JR芦屋駅=17:08(20m)(22℃)
   (02:08/02:53)
【津門神社由緒】
津門神社の発祥は六甲山脈を背に務古の里にあり。/務古の里は古来、自然の良港で津登、津奴、津門との名称がある。/大昔は京都方面より山陽四国地方へ渡る人、上方へ上る人で舟の出入りも繁しく津の国一の良港であった。
港の東南に津奴の塩浜があり、北には津登、東には津門の里があり岡一体に老松が繁茂し務古又は津登の松原として万葉の古歌にもある通り有名である。古跡として今も残されて居る綾羽、呉羽姫が百済の国より渡来、我が国に始めて機織などを教えた地にて彼等が外来渡来の神(大日如来)を勧請し創立したと云われている。
今から千六十有余年前(延喜元年)菅公が太宰府に左遷の途次美しい白砂青松の景勝をを愛でられ小祠の辺に御休憩になった。その祠が津門大明神と称し里人が崇敬する津門の氏神である。
津門の氏神である祠を現神域に遷宮したのが宝暦四年十一月にして旧社殿上棟札により明らかであり、当時は神仏混合の時代で毘沙門天神を祀りしも明治の代になり日本の祖神と仰ぐ天照皇大神の御分霊を本殿御祭神と仰ぎ脇殿に毘沙門天神と八竟思兼神を合祀し、(以下略)
【金津山古墳】
 金塚、黄金塚を別称にもつ市内最大の墳丘を残す古墳で、昔々打出の村人を愛した阿保親王が万一の飢餓に備えて財宝をこの塚に埋めたという伝説があります。
 周濠部分の調査をくり返し、全長55m、後円部径40m、前方部長15mの前方後円墳であることが判明しています。
     平成19年6月/芦屋市教育委員会
Ⅴ 摂津本山・住吉川・西国街道・JR摩耶
2021年1月31日(日)(晴れ)三人(12~18℃)
 友人と三人で、摂津本山から住吉川へ向かい、南下して、西国本街道、浜街道そして古墳を巡った。
JR摂津本山駅=10:50(85m)
ヘボソ塚古墳=12:00~12:03
  ダイエーの西側の駐車場にある。
  【古墳】の説明は、この項の末尾参照。
  住吉川へ。
  住吉川の西側を旧国道を越えて下る。
倚松庵=12:42~12:45
  「文豪・谷崎潤一郎は/天界の恋を
  遂げた松子と/この『倚松庵』に
  住んだ。/その妹ふたりも寄寓する。
  /戦争の暗雲をよそに/船場の旧家の
  三姉妹は/その典雅さを失わない/
  作家の目は光り/かくて名作『細雪』は
  人も家もほぼ事実のまま/ここを舞台に
  誕生した」
村界碑=12:50~12:51
  「是より北 住吉村……」
  「是より南 魚崎村……」
雀の松原=12:56~12:58(15m)(15℃)
  「浜辺の松林であったこのあたりは、
  古代にはササイの里と呼ばれていた。
  この地名に『雀[ささい](鳥の名)』の
  字を当てていたのが、「すずめ」と読み
  替えられ、雀の松原という地名が
  できた。古来の景勝地で、源平盛衰記の
  中にも山陽道沿いの名所としてこの名が
  記されている。また『雀合戦』の伝説も
  残っている。/東灘区役所」
  西国街道沿いに歩く。
  西国本街道であったり、
  浜街道であったり。古墳を巡る。
東求女塚古墳=12:03~12:07
  【古墳】の説明は、この項の末尾参照。
阪神・御影駅=13:21
  御影道標。
  「明治6年(1873年)政府は江戸時代の
  不正確な里程を測りなおし従来の一里塚
  に代わって里程標を立てることを
  命じた。この石柱は他の村にある
  道路元標と違い、兵庫県により大正2年
  (1913年)2月に建てられた武庫郡
  御影町の道路元標で四面に神戸、尼崎、
  西宮、神崎などへの距離が刻まれている
  /東灘区役所」
御影クラッセ=13:25~13:40(25m)(18℃)
  喫茶店で一休みする。
一里塚橋=13:47
  「このあたりは、以前字一里塚と呼ばれ
  ていた。ここを東西に通った西国街道沿
  いに一里塚が設けられていたのでつけら
  れた地名である。一里塚は、旅路の距離
  を測るため、街道に沿って設けられたも
  ので、江戸時代に整備された。今は塚も
  なく、わづかにこの橋がその名を
  とどめているだけである。
  /東灘歴史掘り起こし隊、東灘区役所」
徳川道起点=13:50~13:52
  阪神電車・石屋川駅北側の公園。
  【起点】の説明は、この項の末尾参照。
西国橋=13:53~13:54
処女塚道標=13:58
  「この道標が建つ東西の道は、江戸時代
  の西国街道・本街道にあたる。そして、
  ここから南にある処女塚へ向かうための
  道しるべとして、この道標は建てられ
  た。正面に「兎原遠とめ塚」左右に
  「小山田健雄戦死碑」の文字が刻まれて
  いる。
  /東灘歴史掘り起こし隊、東灘区役所」
処女塚古墳=14:01~14:06
西求女塚古墳=14:58~15:08(25m)(12℃)
  【古墳】の説明は、この項の末尾参照。
JR摩耶駅=15:15(12m)
    (03:39/04:25)
【ヘボソ塚】
 このあたりに古墳時代前期の西北西むきの前方後円墳があった。明治28年の発掘などで勾玉、管玉、石釧のほか六面の銅鏡が後円部竪穴石室から出土しており東京国立博物館に所蔵されている。古く、全長63.35mで後円部の直径32.2mで高さ約3.62mと記録されている。ヘボソという名は16世紀に初めて現れるが、その意味は不明である。古い里歌に「岡本のオサパに立てるヘボソ塚布織る人は岡本にあり」というのがあるが、江戸時代の摂津名所図会にはすでにその歌の意味はわからないと記されている。/東灘区役所
【東求女塚古墳】
 東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳とともに「葦屋の莵名負処女」をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、莵名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれていますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。(中略)
 これらの調査結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が敷かれていたとわかりました。
 東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は現在、東京国立博物館に保管されています。
 この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。/東灘区役所
【徳川道起点】
 ここは幻の道として知られている、徳川道の起点である。徳川道は江戸時代末期(慶応3年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である。そのコースはここで西国街道と別れ、当時の徳井・平野・高羽・八幡・篠原の各村を経て杣谷を通り、杣谷峠・森林植物園・鈴蘭台・白川・高塚山・長坂・明石大蔵谷までの8里27町9間(約34km)であった。/東灘区役所
【西求女塚古墳】
 西求女塚古墳は、古くは「万葉集」に□□処女の悲恋伝説にまつわる莵原壮士の墓として詠まれ、東灘区の処女塚古墳や、東求女塚古墳とともに、「大和物語」や謡曲「求女塚」などにも登場する古墳として、知られています。
 大きさは全長約95メートル、前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳であり、築造当初は斜面全体が葺石で覆われていたと考えられています。竪穴式石室と呼ばれてる埋葬施設に、中国製の鏡や鉄製の剣、刀、槍などが納められていました。
 これらの出土品から、この古墳は古墳時代初期の4世紀の初めごろにつくられたと考えられ、当時のこの地方の有力な豪族の墓であったと考えられます。
 味泥地区のまちづくりの事業のひとつとして、古墳の再整備が計画されたため平成4年度から、大がかりな発掘調査が行われました。このときに卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が多数発見されています。
  語りつぐからにも/幾許恋しきを/
  直目に見けむ/古壮士
       (万葉集 田辺福麻呂)
  平成八年十一月
     灘区役所、神戸市教育委員会