| Ⅳ 西宮・西宮神社・芦屋 2021年5月4日(火)(曇り)三人(22~26℃) |
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| 西国街道として西宮神社を確かめたかったのと、百済からの機織姫の伝説の地を見たかった。 |
| JR西宮駅=14:15(5m) 松原神社・天満宮=14:26~14:37 菅原道真が、延喜元年、藤原時平の そしりによって、九州筑紫に下る時 この地に休泊された。同三年に太宰府で 薨去。後に祠を奉ったのが松原天満宮の 始まり。 漢織呉織の松。 4世紀頃、呉の国から迎えられた漢織、 呉織という二人の織工女が、武庫の港に 上陸し、この辺りの松原で休息したが、 その時に、傍らの松に身を寄せて、 はるかな故国を偲んだという。その身を 寄せた松がかつてあったという。 津門神社・昌林寺=14:49~15:10 【津門神社の由緒】については、 この項の末尾参照。 福祉センター(2m)=15:20(10m)(26℃) 西宮市総合福祉センター。 西宮神社=15:37~15:50(10m)(22℃) 医王山圓満寺=15:55~16:00 成田山。 境内の神変大菩薩の石塔の石龕に、 役行者が祀られている。 金津山古墳=16:40~16:45(15m)(25℃) 【古墳】の説明は、この項の末尾参照。 JR芦屋駅=17:08(20m)(22℃) (02:08/02:53) |
| 【津門神社由緒】 津門神社の発祥は六甲山脈を背に務古の里にあり。/務古の里は古来、自然の良港で津登、津奴、津門との名称がある。/大昔は京都方面より山陽四国地方へ渡る人、上方へ上る人で舟の出入りも繁しく津の国一の良港であった。 港の東南に津奴の塩浜があり、北には津登、東には津門の里があり岡一体に老松が繁茂し務古又は津登の松原として万葉の古歌にもある通り有名である。古跡として今も残されて居る綾羽、呉羽姫が百済の国より渡来、我が国に始めて機織などを教えた地にて彼等が外来渡来の神(大日如来)を勧請し創立したと云われている。 今から千六十有余年前(延喜元年)菅公が太宰府に左遷の途次美しい白砂青松の景勝をを愛でられ小祠の辺に御休憩になった。その祠が津門大明神と称し里人が崇敬する津門の氏神である。 津門の氏神である祠を現神域に遷宮したのが宝暦四年十一月にして旧社殿上棟札により明らかであり、当時は神仏混合の時代で毘沙門天神を祀りしも明治の代になり日本の祖神と仰ぐ天照皇大神の御分霊を本殿御祭神と仰ぎ脇殿に毘沙門天神と八竟思兼神を合祀し、(以下略) |
| 【金津山古墳】 金塚、黄金塚を別称にもつ市内最大の墳丘を残す古墳で、昔々打出の村人を愛した阿保親王が万一の飢餓に備えて財宝をこの塚に埋めたという伝説があります。 周濠部分の調査をくり返し、全長55m、後円部径40m、前方部長15mの前方後円墳であることが判明しています。 平成19年6月/芦屋市教育委員会 |
| Ⅴ 摂津本山・住吉川・西国街道・JR摩耶 2021年1月31日(日)(晴れ)三人(12~18℃) |
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| 友人と三人で、摂津本山から住吉川へ向かい、南下して、西国本街道、浜街道そして古墳を巡った。 |
| JR摂津本山駅=10:50(85m) ヘボソ塚古墳=12:00~12:03 ダイエーの西側の駐車場にある。 【古墳】の説明は、この項の末尾参照。 住吉川へ。 住吉川の西側を旧国道を越えて下る。 倚松庵=12:42~12:45 「文豪・谷崎潤一郎は/天界の恋を 遂げた松子と/この『倚松庵』に 住んだ。/その妹ふたりも寄寓する。 /戦争の暗雲をよそに/船場の旧家の 三姉妹は/その典雅さを失わない/ 作家の目は光り/かくて名作『細雪』は 人も家もほぼ事実のまま/ここを舞台に 誕生した」 村界碑=12:50~12:51 「是より北 住吉村……」 「是より南 魚崎村……」 雀の松原=12:56~12:58(15m)(15℃) 「浜辺の松林であったこのあたりは、 古代にはササイの里と呼ばれていた。 この地名に『雀[ささい](鳥の名)』の 字を当てていたのが、「すずめ」と読み 替えられ、雀の松原という地名が できた。古来の景勝地で、源平盛衰記の 中にも山陽道沿いの名所としてこの名が 記されている。また『雀合戦』の伝説も 残っている。/東灘区役所」 西国街道沿いに歩く。 西国本街道であったり、 浜街道であったり。古墳を巡る。 東求女塚古墳=12:03~12:07 【古墳】の説明は、この項の末尾参照。 阪神・御影駅=13:21 御影道標。 「明治6年(1873年)政府は江戸時代の 不正確な里程を測りなおし従来の一里塚 に代わって里程標を立てることを 命じた。この石柱は他の村にある 道路元標と違い、兵庫県により大正2年 (1913年)2月に建てられた武庫郡 御影町の道路元標で四面に神戸、尼崎、 西宮、神崎などへの距離が刻まれている /東灘区役所」 御影クラッセ=13:25~13:40(25m)(18℃) 喫茶店で一休みする。 一里塚橋=13:47 「このあたりは、以前字一里塚と呼ばれ ていた。ここを東西に通った西国街道沿 いに一里塚が設けられていたのでつけら れた地名である。一里塚は、旅路の距離 を測るため、街道に沿って設けられたも ので、江戸時代に整備された。今は塚も なく、わづかにこの橋がその名を とどめているだけである。 /東灘歴史掘り起こし隊、東灘区役所」 徳川道起点=13:50~13:52 阪神電車・石屋川駅北側の公園。 【起点】の説明は、この項の末尾参照。 西国橋=13:53~13:54 処女塚道標=13:58 「この道標が建つ東西の道は、江戸時代 の西国街道・本街道にあたる。そして、 ここから南にある処女塚へ向かうための 道しるべとして、この道標は建てられ た。正面に「兎原遠とめ塚」左右に 「小山田健雄戦死碑」の文字が刻まれて いる。 /東灘歴史掘り起こし隊、東灘区役所」 処女塚古墳=14:01~14:06 西求女塚古墳=14:58~15:08(25m)(12℃) 【古墳】の説明は、この項の末尾参照。 JR摩耶駅=15:15(12m) (03:39/04:25) |
| 【ヘボソ塚】 このあたりに古墳時代前期の西北西むきの前方後円墳があった。明治28年の発掘などで勾玉、管玉、石釧のほか六面の銅鏡が後円部竪穴石室から出土しており東京国立博物館に所蔵されている。古く、全長63.35mで後円部の直径32.2mで高さ約3.62mと記録されている。ヘボソという名は16世紀に初めて現れるが、その意味は不明である。古い里歌に「岡本のオサパに立てるヘボソ塚布織る人は岡本にあり」というのがあるが、江戸時代の摂津名所図会にはすでにその歌の意味はわからないと記されている。/東灘区役所 |
| 【東求女塚古墳】 東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳とともに「葦屋の莵名負処女」をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、莵名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれていますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。(中略) これらの調査結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が敷かれていたとわかりました。 東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は現在、東京国立博物館に保管されています。 この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。/東灘区役所 |
| 【徳川道起点】 ここは幻の道として知られている、徳川道の起点である。徳川道は江戸時代末期(慶応3年)に幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や武士との衝突を避けるために作られた迂回路である。そのコースはここで西国街道と別れ、当時の徳井・平野・高羽・八幡・篠原の各村を経て杣谷を通り、杣谷峠・森林植物園・鈴蘭台・白川・高塚山・長坂・明石大蔵谷までの8里27町9間(約34km)であった。/東灘区役所 |
| 【西求女塚古墳】 西求女塚古墳は、古くは「万葉集」に□□処女の悲恋伝説にまつわる莵原壮士の墓として詠まれ、東灘区の処女塚古墳や、東求女塚古墳とともに、「大和物語」や謡曲「求女塚」などにも登場する古墳として、知られています。 大きさは全長約95メートル、前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳であり、築造当初は斜面全体が葺石で覆われていたと考えられています。竪穴式石室と呼ばれてる埋葬施設に、中国製の鏡や鉄製の剣、刀、槍などが納められていました。 これらの出土品から、この古墳は古墳時代初期の4世紀の初めごろにつくられたと考えられ、当時のこの地方の有力な豪族の墓であったと考えられます。 味泥地区のまちづくりの事業のひとつとして、古墳の再整備が計画されたため平成4年度から、大がかりな発掘調査が行われました。このときに卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が多数発見されています。 語りつぐからにも/幾許恋しきを/ 直目に見けむ/古壮士 (万葉集 田辺福麻呂) 平成八年十一月 灘区役所、神戸市教育委員会 |