役行者を巡る【大阪府】(Ⅱ)

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泉佐野市 七宝瀧寺、経塚権現山、岩屋行者、
     行者修行大護摩場、霊現殿、
     紀泉高原分岐、厄除十一面観音堂、
     身代大龍不動明王、清滝堂、
     行者ヶ滝、元山上峯行者
富田林市 龍泉寺
寝屋川市 全現堂池、打上役行者、正縁寺、
     高柳の行者堂
河内長野市 塚穴古墳、河合寺、観心寺、
     大井の役行者、行者杉峠・大沢峠、
     岩瀬の経塚山、天見不動、
     流谷の金剛童子、岩湧寺、光滝寺、
     光滝、南葛城山
     【奈良県参照】岩橋山、大和葛城山、
      金剛山、神福山
     【和歌山県参照】西ノ行者、
      遣水不動
大東市 北条山行者堂、慈眼寺、龍間山不動尊、
    住道の行者堂
和泉市 松尾寺、施福寺、満願ノ滝、
    父鬼の役行者、経塚山
    【和歌山県参照】東ノ燈明岳、
     和泉葛城山
箕面市 勝尾寺、天上ヶ岳、箕面の滝、
    瀧安寺、行者堂(箕面公園)、
    行者堂右脇の石祠、護摩壇、西江寺
【写真一覧】
泉佐野市
【元山上犬鳴山七宝瀧寺】…大阪府泉佐野市大木8。(2000/02、2003/03、2006/03)
 真言宗犬鳴派大本山。本尊は倶利伽羅大竜不動明王。
 犬鳴山は、高城山(651.1m)、燈明ヶ岳(558m)、天狗岳(558m)、表行場や裏行場を含む峰々の総称である。

 以下、犬鳴山七宝瀧寺のホームページによる。(2016/06)
【犬鳴山と七つの瀧】
[山号「犬鳴山」の由来と義犬伝説](略)
[犬鳴渓谷の七つの滝と寺号「七宝瀧寺」の由来]
 行者の瀧 淳和天皇(824〜834)の時、天下大早魃があり、そこで淳和天皇は諸国の霊山、神社仏閣に祈雨の祈願をさせ、当山でも住侶が本尊不動明王に祈雨の大法を修しました。すると霊験空しからず、泉州一円は慈雨に恵まれることができました。そこで淳和天皇は、犬鳴山中にある著名な七瀑を金銀などの七宝に因んで、七宝瀧寺と命名しました。七瀑とは、両界の滝(金胎両部の瀧として二瀑があり、これを合わせて両界の瀧といいます。一の瀧とも)、塔の瀧、弁天の瀧、布引の瀧、固津喜の瀧、行者の瀧、千手の瀧、の七つで、今も尚千古の姿のままに飛沫を上げています。
 さらに、弘法大師空海は、この七瀑に七福神を祭祀されました。このため山中の七瀧は七福神・不動の霊瀑といわれ、一度この山を参詣すれば、七福神・不動明王の霊気を受け、福徳増進するといわれています。
【七宝瀧寺の歴史】
[開基]
 役行者 犬鳴山は、斎明天王の7年(西暦661年)、修験道の開祖である役小角が28歳の時に開基されました。
 大和の大峰山より6年早く開山されたので、元山上と呼ばれます。役行者の開山時に倶利伽羅大竜王が出現し、これを本尊としたと伝えられています。また葛城峯中の奥の院とも呼ばれ、葛城二十八宿修験根本道場でもあります。役行者は当山で、国家案穏、五穀豊穣、緒人快楽の密法を修せらた。
[中興―南北朝時代](略)
[室町時代](略)
[安土桃山時代](略)
[江戸時代](略)
[現在の犬鳴派]
 明治時代には廃仏毀釈と共に修験道が禁止され、寺観が著しく衰えましたが、明治後期には中興し、以後、大戦を経て復旧に努めてきました。昭和二十五年八月七日には、往時の宗教体制に還り、新たに真言宗犬鳴派を公唱、葛城修験道の根本道場として修験道部を置くなど再興を見つつあります。
 現在は寺域は十八万三千四百坪を有し、生命迄不動明王の霊場として多くの信仰を集めるとともに、葛城修験の入峯修行や山内行場での修行に力を入れており、多いに面目一新しつつあります。国内の霊山のなかでも元祖とされ、独自の進化をとげた犬鳴山。近年の研究では、役ノ行者尊の発祥霊山としての裏づけも公開されるに至っています。
【境内のご案内】
[本尊倶利伽羅大瀧不動明王]
 本尊倶利伽羅大瀧不動明王本尊は役行者の自作による倶利伽羅大龍不動明王(秘仏)で、古来より運気の守護、命乞い不動尊として四方の人々の篤い信仰を集めています。
 その御姿は、秘剣に龍が巻き付いた形像です。倶利伽羅不動を本尊とする寺院は日本国内で類例がありません。
 倶利伽羅大龍不動明王は、悉地明王(悉地とは成就の意味)ともいわれ、古来より願望成就の守護神であり、生命乞の不動明王として霊験あらたかです。
[布袋尊](略)
[原生林と大小48瀧が織りなす渓谷美]
 原生林と大小48瀧が織りなす渓谷美七宝瀧寺の周辺は、和泉葛城山の西方に位置し、和泉山脈の中で渓谷を形成しています。老松の原生林と大小48瀧の渓谷美で知られ、春は山桜、新緑、夏は河鹿、秋には紅葉と、四季それぞれの趣があります。
 役行者が修験道の行場として開いた「犬鳴山七宝瀧寺」は、日本最古の霊場であり、清涼とした渓流と自然とあいまって、訪れる人々の心身を癒しています。
【岩屋行者・迎えの行者】(2000/02、2003/03、2006/03)(写真01)(写真02)
 役行者と前鬼、後鬼の石像。役行者は、どことなく優しい顔立ちをしている。
【身代り不動明王】(2000/02、2003/03、2006/03)(写真03)
 不動明王の右に役行者の青銅像が祀られている。
【行者修行大護摩場】(2003/03)(写真04)
 役行者の石像が祀られている。
【霊現殿】(2003/03、2006/03)
 二体の役行者の木造が祀られている。暗くてわかりにくいが、厳しい顔をしている。
【紀泉高原分岐】(2000/03、2006/03)(写真05)
 五本松を経て和泉葛城山に向かう紀泉高原分岐の手前に、小さな浮き彫りの役行者の石像が祀られている。
【厄除十一面観音堂】(2006/03)
 本尊の左に木像の役行者が祀られていた。
【清滝堂】(2000/02、2006/03)
 不動明王の左に、いかにも古い役行者の木像が祀られていた。厨子の扉が開けられていた。
【行者ヶ滝】(2000/02、2003/03、2006/03)(写真06)
 行者ヶ滝の手前、左手に役行者の青銅像があって、その足下の岩がくぐり岩になっている。また、行者ヶ滝の右手に石彫りの龍大神があり、龍大神の左下に役行者が彫られている。
【元山上峯行者尊】(2003/03、2006/03)(写真07)
 表行場にある。役行者の青銅像が大きな祠の中に祀られている。昭和四十七年四月二十八日の日付になっている神変大菩薩尊像奉安発起人の銘板がある。
富田林市
【牛頭山龍泉寺】…富田林市大字龍泉888。(2007/01)
 高野山真言宗。
 本堂の右に行者堂がある。行者堂の中は見ることができない。行者堂の前にたくさんの絵馬がかけられていた。
寝屋川市
【全現堂池(浅間堂池)】…大阪府寝屋川市星田9。(2010/11)
 全現堂池の北東から北沿いに西に向かって道がある。西端に、大きなコンクリートの建物があって、そこに富士浅間大日如来が祀られているという。その右に祠があって、大日如来の石像が祀られている。
 またそれらの後ろに、役行者の石像が祀られている。半肉彫りの右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。(写真08)
【打上役行者】…大阪府寝屋川市打上元町38-1。(2007/03、2007/10)
 JR片町線(学研都市線)・東寝屋川駅の東方の小高い丘、打上公園の頂に石宝殿古墳、高良神社(打上神社)がある。
 高良神社と記された石の鳥居の右手に石窟があって、半肉彫りの役行者の石像が祀られている。(写真09)

打上神社(高良神社)[うちあげじんじゃ・こうらじんじゃ]
祭神は武内宿禰命。
神社の由緒
当社の創建年代、由緒は定かではありません。
もともと高良(こうら)神社と称していましたが、明治維新の後今の社名に改められ、明治五年村社に列せられました。
現在も鳥居や石柱等に高良神社と表記され、正式名称である打上神社の記載はありません。
【佛性山楠公院正縁寺】…大阪府寝屋川市高倉1-8-12。(2010/07)
 浄土宗知恩院末。如意輪観世音菩薩。
 河内西国三十三所観音霊場第三十番札所。
 お寺の東南の隅に石仏が集められている中に、役行者の丸彫りの石像も祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像で、かなり頬のかけおちた表情をしている。台座に寛政元酉の銘がみられる。(写真10)

「正縁寺十三仏板碑/……境内には、多くの石仏が安置されています。これらは、当寺の東を通る東高野街道すじにあったものが、道の改修等のためにいつの頃からかここに集められるようになったためでしょう。……」(寝屋川市の案内板)
【高柳の行者堂】…大阪府寝屋川市高柳1。(2011/10)
 寝屋川市のホームページ(文化スポーツ振興課、名前でさがそう文化財)に、「高柳の行者堂」が紹介されている(2011/10)。内容は以下の通りである。
高柳地区の「大将軍」宮前の道路を南へ進んだ旧地区のなかほどに民家にはさまれてたっているのが「行者堂」です。/内部は畳敷と板敷で、奥の祀壇には行者堂の名のとおり高さ1mくらいの役小角(修験道の祖)の立像が厨子に安置されています。/その右の厨子には十一面観世音立像がまつられていますが、高さ40cmくらいの位牌らしいものが4つ見つかりました。戒名や没年月日や生前の役職などが記されています。/一番古いものは、寛文8年(1669)の永井信濃守尚政の位牌で、他にも延宝5年(1677)、正徳元年(1711)、宝暦12年(1762)と記された領主永井家の人たちの位牌があります。/高柳地区には真言宗寺院で聖徳太子ゆかりの長栄寺や、真言宗大谷派の金光寺がありますが、このほかにも十一面観世音と役小角を本尊とする寺院があったのではないかと思われ、寺がなくなったことを村人が惜しんでこのように維持してきたのでしょう。

 寝屋川市の高柳に出かけてみた。ちょうど高柳神社(高柳八幡宮。寝屋川市高柳3-19-25)の秋祭りの日(10月16日)であった。そこここに立てられている幟には、「十月十八日/高柳神社秋祭り」とあって、日にちが違ってた。
 大将軍(寝屋川市高柳1)、長栄寺(寝屋川市長栄寺町6-4)、金光寺(寝屋川市高柳4-9-21)の所在は分かったが、肝心の高柳の行者堂を探せなかった。「大将軍」の前の道を南に向かうと、高柳2丁目の手前辺り、「老人ホーム・ソレイユねやがわ」の前には、地蔵堂があった。
河内長野市
【塚穴古墳】…大阪府河内長野市上原町19。(2007/11)
 外環状線の上原町の信号の南西辺りに、小規模な塚穴古墳がある。その敷地内に石祠があって、石像が三体祀られている。真ん中に祀られているのが丸彫りの役行者の石像で、左右に地蔵尊が祀られている。江戸時代のものと見られる。
 役行者の石像は、倚像ではなくて、左足を踏みおろす(右足を上げた)半跏の姿をしており、右手に錫杖、左手に経巻を持っている。山梨県の円楽寺の役行者の木像と同型である。また頭部は元々のものではなくて、あとから付けたものであろう。
【河合寺】…河内長野市河合寺。(1999年末)
 木造 役行者倚像 頼助作。室町時代、応永三年(1396)(『役行者と修験道の世界』毎日新聞社、1999年9月、17、206頁)  
【桧尾山観心寺】…河内長野市寺元475。(1996/03、2000/07、2007/02)
 高野山真言宗遺跡本山。如意輪観音菩薩。
 日本三如意輪。
「観心寺は文武天皇の大宝元年(七〇一)、役小角によって開かれ、初め雲心寺と呼ばれていた」(観心寺の案内)。
 大師堂の右隣、後村上天皇檜尾陵登り口の左に、役行者堂がある。2007年に訪れたとき、堂内を見てもいいといわれた。引き戸に穴が開いていて、堂内に入ることができた。立派な作りの彩色された等身大の木像である。(写真11)
【大井の役行者】…河内長野市大井。(2007/02)
 南海バス・大井バス停の傍らに石祠があって、役行者の石像が祀られていた。若い表情の顔をしていた。(写真12)
【行者杉峠・大沢峠】…大阪府河内長野市石見川、奈良県五條市大澤町、和歌山県橋本市隅田町山内。(1998/12、2007/02)
 峠(725m、地形図では行者杉)には、行者杉・東ノ行者といわれる行者堂があり、堂内には、50センチほどの役行者の丸彫りの石像が祀られている。
 右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。またその両脇には、前鬼、後鬼の石像も祀られている。(写真13)
 石見川地区の年中行事として、5月5日に行者祭りが行われている。
【岩瀬の経塚山】…大阪府河内長野市岩瀬。(2004/02、2005/03)
 葛城第18番経塚。
 2004年2月には確認できなかったが、2005年3月に確認した。
【天見不動】…大阪府河内長野市天見。(1998/12)
 砥石谷上部のダイヤモンドトレールに葛城第17経塚がある。
【流谷の金剛童子】…大阪府河内長野市天見。(2001/02、2004/02)
 葛城第16番経塚の流谷の金剛童子。旧「金剛童子堂」の弁財天の祠。2001年には確認できなかった。
【湧出山岩湧寺】…河内長野市加賀田。(2001/02/09、2004/05/15)
 もとは天台宗であったが現在は融通念仏宗。
 岩湧山の中腹にある。大宝年間(701~703年)、役の小角の開創。
 本堂に役行者が祀られている。また、いにしえの道には、行者の滝がある。行者堂、葛城第15経塚は確認できなかった。(2001/02)
 葛城第15経塚は、すぎこだちの道(編笠山・一徳坊山への道でもある)への取付から岩涌寺に向かって、少し下ると、左手に入る道があって、その先にあった。(2004/05)
 本堂の前で、住職が庭掃除をしていて、話を交わしているうちに、役行者の話になり、本堂の中を拝観させてくれることになった。本堂には、本尊の11面観音の左に不動明王、右に等身大の役行者の木像が祀られている。力士のような体格で、顔はふっくらしている。スネの部分の筋骨は太く力強い。13歳から18歳に岩湧寺で修行した頃のお姿だという。錫杖を左手に所持していたように思われる。(2004/05)
 行者堂は、いわわきの道を登っていき、木製の階段がきれたところを左に入ったところにある。行者堂の前は、断崖である。行者堂内の左の厨子には、烏天狗の顔をした?権現が祀ってあった。右の厨子には、役行者と前鬼、後鬼の木像が祀ってあった。本堂の木像と同じく、江戸初期のものであろうか。(2004/05)(写真14)
【福玉山光滝寺】…河内長野市滝畑。(2007/10)
 融通念仏宗。
 滝畑民俗資料館には光滝寺の資料がある。
 光滝寺杉本下の自然石(善女竜王、不動明王)が葛城第14経塚。
 江戸時代、本堂には役行者が祀られていた。現在も祀られているという。
 かつては槇尾山施福寺の奥の院であったという。施福寺と同様に行満の開基。現在は極楽寺が管理している。
 「滝畑の光滝寺は修験道の祖と仰がれている役の小角が修行したと伝えられている寺である。現在は融通念仏宗であるが、」もとは天台宗であった。「さらにさかのぼると、元禄ごろは修験道本山派の本山・聖護院の若生寺(現若王子神社)の末寺であった」(『大阪50山』)
【南葛城山】(922m)…大阪府河内長野市滝畑、和歌山県橋本市高野口町九重。(2004/12)
 葛城第14経塚・光滝寺一本杉塚。鏡の宿。南葛城山の東5分。
【奈良県参照】岩橋山、大和葛城山、金剛山、神福山
【和歌山県参照】西ノ行者、遣水不動
大東市
【北条山行者堂】…大阪府大東市北条5。(2008/03/31)
 お堂はないが、北条神社のすぐ西のY氏の敷地内に不動明王が祀られていて、その左に神変大菩薩報恩菩提宝塔の石碑が建てられている。
 明治十六年ごろ、不動尊を信仰していた初代の横谷宗吉氏は干天がつづいて、農民らが困っているとき、雨乞いをして慈雨に恵まれ、多くの信者ができてきたので、現地に居を移し、明治三十九年八月には庭先に「役行者石碑」を建てた。昭和五十二年十月には二代横谷誠教氏は「神変大菩薩報恩菩薩宝塔」の石碑を建立。天下泰平・五穀成就・家内安全を祈願している。
【福聚山慈眼寺】…大阪府大東市野崎2。(2000/09)
 曹洞宗。本尊は十一面観音。野崎観音。
 「お染・久松」の供養碑がある。本堂右手、薬師堂の左手に、貫禄のある顔をした「行者神変大菩薩」の石像が祀られていた。台座には昭和三年十月の銘があったが、石像は新しいようだ。
 「野崎観音は、福聚山慈眼寺といい禅宗のお寺です。今から1300年ほど前、天平勝宝年間(749~757年)に大仏開眼のため来朝した婆羅門僧正が「野崎の地は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(ハラナ)によく似ている」と行基様に申されました。感動された行基様は、観音様のお姿(十一面観音)を彫みこの地に安置されましたのがこのお寺のはじまりです。幾多の戦乱のため荒れはて、1565年(永禄8年)三好・松永の兵によって全焼し、本尊の観音様だけが残りました。長い間、小さいお堂のままでおまつりしてありましたが、元和2年(1616年)青厳和尚がこのお寺を復興され、元禄宝永ごろにのざきまいりが盛んになると共に、お寺も栄え、現在に到っています。」(慈眼寺のHP)
【龍間山不動尊】…大阪府大東市大字龍間。(2007/10)
 阪奈道路沿いの近鉄バス・竜間バス停の北側の細い道を西に向かうと、龍間山不動尊がある。
 不動明王の左の石祠に、板状の石に浮き彫りされた役行者と前鬼、後鬼が祀られており、円満な表情をしている。また「永禄十(1567)年丁卯三月七日敬白」の銘が彫られている。北河内最古の役行者の石像だといわれている。
【住道の行者堂】…大阪府大東市赤井1-7。(2007/10)
 JR片町線住道駅北側の住道駅前新大橋を渡った西側の墓地の西に、行者堂がある。
 石碑には「左大坂」「右大峯山上三十三度道」とあり、「光明組」によって「明治拾八年四月建設」されたもの。行者堂には、役行者が祀られているという。
和泉市
【泉州・阿弥陀山松尾寺】…和泉市松尾寺町2168。(2006/02)
 天台宗。如意輪観世音菩薩。
 金堂の本尊・如意輪観世音菩薩の右に役行者が祀られていた。寺の女性が、御開帳は4月1日なのだがといって、わざわざ金堂まで行って、幕をたぐり、懐中電灯を照らして、見せてくれた。
 玉眼がかっと開いた洗練された、等身大の立派な木造の役行者であった。
 パンフレットの松尾寺略縁起には次のように記されている。
 「第三十九代弘文天皇の白鳳元年(西暦六七二年・紀元一三二二年)役行者の開基であります。役行者が、この山で修行中に楠の霊木を以って『如意輪観世音菩薩』の尊像を刻んで安置されたのであります。その後、越前の泰澄大師が入山され立派な諸堂を建立しました」
 『役行者と修験道の世界』(毎日新聞社、1999年9月、22、)には「役行者前後鬼・八大童子像」(絹本着色、鎌倉時代)が掲載されている。
 『特別展・當麻寺』(奈良国立博物館)に、「役行者八大童子像」(鎌倉時代、13C)が展示された。(2013/05)
【槇尾山施福寺】…大阪府和泉市槇尾山町136。(1998/12、2005/06)
 天台宗。千手千眼観音菩薩。
 欽明天皇の勅願で行満が開基したといわれる。
 山号は、役行者が法華経28巻を葛城の峰に分けて納めた時、最後の巻・巻尾をこの山に納めたことに由来するといわれる。
【満願ノ滝】…大阪府和泉市槇尾山町。(2005/06)
 満願ノ滝の右の祠に役行者神変大菩薩の青銅像が祀られている。左の祠には弘法大師の石像が祀られている。曼荼羅に描写されているとおりの配置だそうである。前回は気がつかなかったが、役行者は20年前から祀られているとのことであった。(写真15)
【父鬼の役行者】…大阪府和泉市父鬼町。(1999/01、2005/03、2007/04)
 南無役行者大明神。
 父鬼バス停の前に南横山八坂神社、観音寺(葛城行所)があって、そこからさらに南に向かう。落石よけのトンネルの手前、道路沿いの一段と高い所に、石像の役行者が祀られている。江戸時代のものらしい。また八坂神社、観音寺の近くには、乳滝がある。(写真16)

 家内が、何か役行者らしい文字を見たというので、車を降りて、一人で歩いて戻ると、「役行者大明神」が祀ってあった。一段と高いところに、役行者の石像が祀ってあり、新しい鉄の下駄がある。その石像の下に、古い石碑があって、「よしのみち」と記されているようだ。吉野の大峰山への道標なのだろう。
 老婦人が祠を清めていたので、聞いてみると、役行者が祀ってあったのは、少なくとも江戸時代にさかのぼるようだ。老婦人は80歳を越えるとのことで、毎日、お参りをしているとのことである。道路沿いの崖の工事をした時に今の形になったとのこと。去年、平成10年7月のこと。お供えのミカンを頂戴した。乳滝に下りる道も聞いた。
【経塚山】(825m)…大阪府和泉市父鬼町。(2000/02)
 葛城第11経塚。
【和歌山県参照】東ノ燈明岳、和泉葛城山
箕面市
【應頂山勝尾寺】…大阪府箕面市粟生間谷2914-1。(2002/11、2011/11、2016/12)
 高野山真言宗。十一面千手観音。
 西国三十三ヶ所霊場第二十三番。法然上人第五番霊場。関西・神仏霊場会第六十五番(神仏霊場大阪二十四番)。摂津四名山。摂津国八十八ヶ所霊場第五十四番。摂津国三十三ヶ所霊場第二十番。

 不動堂の扉が少し開けてあったので、堂内を拝観すると、本尊の右に役行者の木像が祀られていた。堂内は暗く、細部は不明であるが、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。足元には、前鬼、後鬼も祀られていた。(2016/12)

 勝尾寺の由来(パンフレット、2016/12)
 当山は大阪平野の真北にそびえ数千年の昔より山自体の持つ霊力と1300年念じ込んできた念力により無類の聖地として崇拝されてきた。奈良時代初期神亀4年(727年)善仲・善算両上人が山中に草庵を構え、光仁帝皇子開成(桓武帝異母兄)が、両上人を師として仏界を求め、天平神護元年(765年)弥勒寺を開創。「妙観」と言う観音化身の比丘と18人の仏師が白檀香木をもって、7月18日より8月18日までの間、身丈八尺の十一面千手観音菩薩を彫刻、本尊となす。よって全国観音縁日が18日と定まるは当山本尊より始まる。
 第六代座主行巡上人は、清和帝の玉体安隠を祈って効験を示した事より、王に勝つ寺「勝王寺」の寺名を賜ったが、寺側は王を尾の字に控え、以来「勝尾寺」(かつおうじ)と号す。元暦元年(1195年)源平内乱の戦火に焼失した堂塔も源頼朝によって再建され以後、勝尾寺は各将軍より壮大なる荘園の寄贈をうけ、広くは百済(韓国)国王も帰依するに至り、法灯が脈々と現在に伝えられている。現存する薬師堂は源頼朝、本堂と山門は豊臣秀頼の再建である。
【天上ヶ岳】(520m)…箕面市箕面。(1997/01、2003/03)
 役行者の青銅像と墓がある。(写真17)
 「天上ヶ岳/この山頂は役行者神変大菩薩が文武天皇の御代大宝元年(西紀七〇一年)六月七日に昇天せられた墓所であります。古来修験道の霊地山伏の聖域につき清浄を保つよう留意御協力下さい。/箕面山 瀧安寺」
 役行者は、ここから母親とともに大陸に渡ったと言われている。
【箕面の滝】…箕面市箕面公園。(1997/01…2003/03)
 658年(斉明天皇4年)4月4日、滝で勤修、龍樹大士と会う。4月17日に滝に入り、龍樹から法灯を伝えられたとの説あり。また別に652年4月4日の説あり。箕面の滝に役行者の石像があった。
 2000年8月に訪れた時には、護摩壇で出会った年輩の女性も言っていたが、草木のためか確認できなかった。2002年11月も同じ。2003年3月に、訪れたとき、行者堂脇の本来の地に戻ったことが分かった。
【箕面山瀧安寺】…箕面市箕面公園2-23。(1997/01、2000/08、2002/11、2003/03、2007/04)
 修験道の根本道場。摂津四名山。
「斉明天皇4年(658年)、役行者は大滝の下、苦修練行、弁財天の助法を受けて、ついに悟道した。役行者は報恩のため滝の側に堂を建て、弁財天を祀り、箕面寺と称したのが、起源である」
 役の小角作と伝えられる弁財天は鎌倉時代のもの。竹生島、江ノ島、厳島とならぶ日本四ヶ所弁財天の一つ。「箕面寺秘密縁起絵巻(江戸初期、箕面市指定文化財)を所蔵。

 箕面山瀧安寺のホームページ(2011/11)には、次のように記されている。
 「箕面山は古来より瀧を中心に山嶽の修行の道場として発展し、日本でもっとも古い修行地の一つです。658年役行者が大瀧のもとで苦行を重ね弁財天の助法を受けて悟りを開き、その報恩のため弁財天を祀り箕面寺と称したことが瀧安寺の起源です。以後、瀧道に沿って50余のお堂が並び全国から多くの修行者が出入りしました。著名な高僧に行基・空海・円珍・千観・聖宝・日蓮・法然・蓮如の諸師があります。戦国時代、織田信長の兵火によって焼失し現在の地に移築されました。……」
  またホームページの役行者の項では、以下のように記されている。
 「役行者は大和の葛城山麓で生まれ幼少の頃より梵字を書き仏像を彫る神童で、成人してからは山で修行し神通力を得、その後は諸国を巡り歩き多くの山を開山したと伝えられています。60余年を山岳修行に終始され修験道の祖と仰がれています。
 箕面山瀧安寺は658年飛鳥時代、大瀧のもとで苦行の末弁財天の助法を受けてついに悟道した役行者が報恩のため瀧のそばに堂を建て弁財天を祀り箕面寺と称したことが始まりです。
 役行者の伝説は各地に存在し、常に前鬼と後鬼を従えて行脚し呪術で魔物を退治し人々を助けたといわれています。66歳の時その法力を妬んだ人たちによって伊豆大島へ流罪されますが、のちに無罪とわかり国師として都に迎えられ、68歳の時再び箕面へ戻り山奥にある天上ヶ岳から昇天されました。ゆえに箕面山は役行者の悟道の地とともに、御終焉の聖地といわれています。

 箕面と役行者の縁について、瀧安寺所蔵の『箕面寺秘密縁起絵巻』には次のように記してあります。
 役行者が葛城山で修行していた25歳の時、北西の方角に五色の雲を見て三鈷杵を投げたところ雲とともに飛んでいった。五色の雲を求めて箕面山を訪れた時、ふもとの「坂本」で歓喜天の化身である老翁と出会い、この山は修行の霊場で龍神の秘窟であると教えられる。山奥に踏み分け入ると大瀧の上の松に投げた三鈷杵が掛かっているのを見つけ、それ以後瀧のもとで修行する……

西宮市史、第5巻、資料編2、昭和三十八年。
(寛政11年・1799)三月 箕面山役小角千百年忌五日ヨリ御法会ニ付、……(702ページ)
四月二日 箕面山参詣、開帳拝礼……役小角之像……(703ページ)
【行者堂】…箕面市箕面公園。(2000/08、2002/11、2003/03、2007/04)
 行者堂拝殿(江戸時代)の後ろに行者堂(昭和56年再建)がある。行者堂には、室町後期の木造の役行者と前鬼、後鬼が祀られている。

【瀧安寺 行者堂の説明文】
主尊 役行者 室町時代の作 当寺創建者
脇尊 不動明王 鎌倉時代の作
蔵王権現 江戸時代の作 大峰山の主尊
役行者略歴
六三四年 奈良県茅原(御所市)で誕生、少年時代より葛城山で修行。
六五八年、箕面山に到り、瀧窟に籠って修行、遂に悟りを開く、滝を箕面滝と名付け、側に滝を神格化した弁財天を祭祠して箕面寺を創建する(鎌倉時代に後醍醐天皇の勅旨により瀧安寺と改称)以降、大峰山はじめ全国の山岳で修行し、各地の人々を教化される。
七〇一年(大宝元年)箕面山中の天上ヶ岳頂上より昇天姿形を隠される。後世、修験道(山岳宗教)の開祖として仰がれ、光格天皇より神変大菩薩という宝号を賜る。別に、箕面寺建立を白雉元年(650年)とする説がある。
【行者堂右脇の石祠】…箕面市箕面公園。(2003/03)
 行者堂の右手に、石祠があって、役行者の石像が祀られている。石像は、痩身ではあるが、優しい笑みを浮かべている。(写真18)
 この石祠は、最近造られたもので、2002年11月始めにはなかったもの。観音堂で寺の人に聞いたところによれば、元来、役行者石像は、この地に祀られていたが、10年ほど前、箕面の滝に移されたのを本来の地に戻したとのことであった。
【護摩壇】…箕面市箕面公園。(2000/08、2002/11、2003/03、2007/04、2011/11)
 護摩壇の奥に、役行者、前鬼、後鬼の石像が祀られている。役行者の表情は、ふっくらとして優しい顔をしている。右下の後鬼の石像は、左の前鬼と作風がかなり違うもので、西江寺にあった頭部の欠けた石像が本来のものかもしれない。(写真19)
【箕面山聖天宮西江寺】…箕面市箕面公園。(2000/08/07、2003/03/21)
 高野山真言宗。
 略縁起によれば、
「当山は斉明天皇四年(西暦六五八)、役行者小角の開基なり。/寺伝に行者この地を開くべく、五香の滝に参籠一代の苦行せられること幾歳月山嶽鳴動して大光明輝き、光彩の中に、大聖歓喜天、出現せられ、当山を日本最初の霊場とし、万民の諸願を成就せんがため、ここに姿を現したと伝う。境内に安置する対談石はその時、行者が歓喜天に拝答した伝説を有す/この地は……」。

 大弁財天尊を祀った堂内に、役行者尊も祀られているという。厨子が閉じられていたので、内部は不明。その向かいの祠の右手に、石像が数体あるが、その中の一体は、頭部がないが、後鬼であろうか。また境内には、役行者と歓喜天の化身である老翁が対談したという「歓喜天/役小角/出現對談石」が残っている。

 以下は、聖天宮西江寺のホームページ(2011/11)による。
 「聖天宮西江寺は修験道の開祖である役行者によって建立された大聖歓喜天霊場の根本道場です。天平年間より聖武天皇の勅願を受け摂津国神宮寺として信仰を集め、明治時代の末期頃より現在の聖天宮西江寺に改称しました。……」
 またホームページの本堂・大聖歓喜天の項では、以下のように記されている。
 「箕面山は古来より瀧を中心に山林の修行道場として発展し、日本でもっとも古い修行地の一つです。658年飛鳥時代、役行者によって開山されました。役行者が箕面大瀧で苦行を重ねていたある日、山獄鳴動して光明が輝き光の中から老翁に化身した大聖歓喜天が現れ、この山を日本最初の歓喜天霊場とし、万民の諸願成就のため未来永劫ここに鎮座すると申されました。
 本堂には役行者作日本最初の大聖歓喜天が祀られ1300年余の歴史があり、現在も地元の氏神として『聖天さん』と呼ばれ信仰を集めています。
 大聖歓喜天は古代インドでは知恵・幸運の神であるガーネーシャがもとで、日本へは金銀融通、縁結びの神として伝わりました。象頭人身の男女が抱き合う形をしており、夫婦和合・安産・子宝の神としての信仰もあります」
【写真一覧】(ページのトップへ)
 (写真01)迎えの行者尊(岩屋行者)
 (写真02)岩屋行者(迎えの行者尊)
 (写真03)身代り不動明王の役行者
 (写真04)行者修行大護摩場の役行者    
 (写真05)紀泉高原分岐の役行者
 (写真06)行者ヶ滝の役行者
 (写真07)元山上峯行者尊
 (写真08)全現堂池の役行者
 (写真09)打上役行者
 (写真10)佛性山楠公院正縁寺の役行者   
 (写真11)観心寺行者堂の役行者
 (写真12)大井の役行者
 (写真13)行者杉・東ノ行者の役行者
 (写真14)岩湧寺行者堂の役行者
 (写真15)槇尾山・満願ノ滝の役行者
 (写真16)父鬼の役行者
 (写真17)天上ヶ岳の役行者
 (写真18)瀧安寺行者堂右脇の役行者    
 (写真19)瀧安寺護摩壇奥の役行者

     (写真01)岩屋行者・迎えの行者

     (写真02)岩屋行者・迎えの行者

    (写真03)身代り不動明王の役行者

   (写真04)行者修行大護摩場の役行者

     (写真05)紀泉高原分岐の役行者

      (写真06)行者ヶ滝の役行者

       (写真07)元山上峯行者尊

      (写真08)全現堂池の役行者

      (写真09)打上役行者

   (写真10)佛性山楠公院正縁寺の役行者

    (写真11)観心寺行者堂の役行者

       (写真12)大井の役行者

   (写真13)行者杉・東ノ行者の役行者

    (写真14)岩湧寺行者堂の役行者

   (写真15)槇尾山・満願ノ滝の役行者

    (写真16)父鬼の役行者

     (写真17)天上ヶ岳の役行者

   (写真18)瀧安寺行者堂右脇の役行者

     (写真19)瀧安寺護摩壇奥の役行者