役行者を巡る【大阪府】(Ⅲ)
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| 柏原市 雁多尾ノ小鞍嶺、行者堂 |
| 羽曳野市 譽田八幡宮、大黒寺、役行者錫杖水 |
| 藤井寺市 葛井寺 |
| 東大阪市 千手寺、興法寺、長尾渓の役行者、 長尾の滝、天龍院、慈光寺、唐櫃石、 六萬寺、霊光院、御厨行者堂、 八剣神社の道標、 三ノ瀬の役行者道標、 生駒山【奈良県】 |
| 泉南市 金熊寺、信達神社、 ボンデン山【和歌山県】 |
| 四条畷市 岡山行者堂、正法寺、 上清滝の行者堂、逢阪の巨石 |
| 交野市 かいがけ地蔵、獅子窟寺、月ノ輪滝、 源氏ノ滝 |
| 豊能郡 法輪寺、牧の役行者、剣尾山・行者山、 月峰寺 |
| 泉南郡 泉南飯盛山、札立山、高仙寺、金輪寺、 横手の八王子社、慈眼院、 大福山【和歌山県】 |
| 南河内郡 叡福寺、山田郷の役行者、岩屋峠、 鹿谷寺跡、竹内峠、平石峠、岩橋山、 久米の岩橋、岩橋峠(伏越峠)、 高貴寺、弘川寺、 二上山雄岳【奈良県】 |
| 千早赤阪村 下東阪の役行者 |
| 【写真一覧】 |
| 柏原市 |
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| 【雁多尾ノ小鞍嶺】…大阪府柏原市大字雁多尾畑1234。(2020/05) 一説に普賢寺跡で、葛城第28経塚ではないかとのこと。 |
| 【行者堂】…大阪府柏原市大字青谷。(2020/05) JR関西本線河内堅上駅から西へ1kmほどのところ、角にある。 行者堂の中は分からない。お堂の前に大峯山登拝の供養碑がある。 石碑の上部に、右手に錫杖、左手に経巻を持った役行者の倚坐像が浮き彫りされている。文政八年の銘がある。堂内の行者像はどうなんだろう。 |
| 羽曳野市 |
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| 【譽田八幡宮】…大阪府羽曳野市誉田。(2006/05) 応神天皇陵の南に位置する。「譽田宗庿縁起」巻中に、役行者参籠のことが記されている。(『役行者と修験道の世界』絹本着色、室町時代・永享五年[1433]、毎日新聞社、1999年9月、30、210頁) パンフレットなどには省略されている。 『本朝神社考』(改造社) 譽 田 [註]大阪府南河内郡古市町に鎭座。譽田別命を祀り府社に列す。古來譽田八幡宮又は(56ページ)譽田宗廟とも稱し、今ホンダをコンダとも稱するが後世の誤なりといふ。 譽田の宗廟の緣起に曰く、應神帝、河内の國舊市の郡長野山に葬る。欽明帝始て廟を改め造て、行幸あり、聖德太子も亦參詣あり。 役行者、將に唐に入らんとす、譽田の社に詣ず、神告げて曰く、蓬萊の藥嘗めざれば益なし、崑崙の玉、琢かざれば寳ならず、是に於て行者、唐に赴いて、崑崙山の仙窟に入る。(57頁) |
| 【天童山大黒寺】…大阪府羽曳野市大黒。(2006/05) 曹洞宗。役行者の開基。 境内の展示用の建物に、役行者、前鬼、後鬼の木像が、大黒天などとともに安置されている。 大黒寺のホームページには次のよう紹介されている。 「当山の縁起は寺伝によると役行者が665年(天智4年)金剛山で修行中、大黒天が出現、その姿を桜の木を刻んで大黒天を造り、小堂を建てた事に始まるという。 創建時は、修験宗の道場であったが、後に弘法大師空海により真言宗に改宗されている(改宗の時期は不明)。天正年間(1573~92年)の兵火にかかり焼失した。 その後、江戸前期の天和年間(1681~84年)に禅僧の祖仙が再興に着手し、1734年(享保19年)暁覚禅師によって現在の地に再興がなっている。現在は曹洞宗(永平寺派)の寺院である」 羽曳野市役所のホームページには次のよう紹介されている。 「日本最古の大黒天出現の寺という伝承を持つ曹洞宗寺院。天智4年(665年)役行者が金剛山で桜の木を刻んで大黒天を造り、小堂を建てて安置したのが始まりといわれていますが、天正年間に消失しました。現在の建物は、享保19年(1734年)に再興されたもので、境内の鐘楼には清朝時代の珍しい中国鐘があります」 |
| 【役行者錫杖水】…大阪府羽曳野市駒ヶ谷。(2011/01) 月読橋から竹之内街道を東に二上山(東)方向に向かう。駒ヶ谷小学校を過ぎて、さらにしばらく進むと、右手に「八丁地蔵」がある。近鉄南大阪線の上ノ太子駅と駒ヶ谷駅の中間くらいの地点になる。「八丁地蔵」の左横に、羽曳野市有形文化財指定の「駒ヶ谷の道標」がある。 その説明文には、「堺の鋳物師神南辺隆光が金剛輪寺の学僧覚峰と面識があったことから建立したもので旅人の道しるべや水飲み場であった」と刻まれている。 覚峰についは、1㎞ほど北に杜本神社があって、隣接して金剛輪寺址があり、説明板に次のように記されている。金剛輪寺は、「織田信長の河内攻めで兵火を受けた」が、「宝暦のころ覚峰(郷土史家)により再建された」という。宝暦年間が1751~1763年であるから18世紀中頃の人である。 「駒ヶ谷の道標」の南面には、観音菩薩像が浮き彫りされていて「駒ヶ谷村」と刻まれており、北面には「役行者錫杖水」と刻まれている。そして西面には「右金剛山/津ぼ井/通法寺/上ノ太子」、東面には「堺神南邊隆光」と刻まれている。 「八丁地蔵」から南に向かう道は、壺井八幡宮を経て、水分から金剛山へ向かう道である。「八丁地蔵」の南の踏切を渡ったところに、「役小角錫杖加持水」と刻まれた石碑があって、現在も井戸があり、行者講の人たちが手入れをしている。 駒ヶ谷栄山講によって建立された正面の役行者の石像は丸彫りで、きりっとした眼光を放っている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。その左には不動明王が祀られている。役行者の足元には、重みのある表情をしたりっぱな前鬼、後鬼の石像が祀られている。また「大峰登山九十五度供養碑」などの石碑もある。(写真01) 駒ケ谷の役行者像道標 <竹内街道> 石道標(尖頭角柱) 高120㎝,20㎝角 江戸期? 市石造物 大阪の街道と道標p7 (左面)「右 金剛山」/正面上部を光背型に削り込み、役行者坐像を陽刻、裏面に「役行者錫杖水」と陰刻/「大坂」の標記は江戸期の可能性 羽曳野市は連続古墳地帯。日本武尊陵もある。古墳、野中寺跡を縫って葛井(ふじい)寺、第五番札所。近頃中国で出土した墓碑銘に葛なにやらの人物の出身地。 高架道路の下に道標、すぐ誉田八幡宮、応神天皇陵。また道標、石川を臥龍橋で渡ってまもなく役行者道標「右金剛山」。 |
| 藤井寺市 |
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| 【紫雲山葛井寺】…大阪市藤井寺市藤井寺1-16-21。(2007/10) 真言宗御室派。十一面千手観世音菩薩。 南大門を入ると、左手に護摩壇があって、丸彫りの役行者の石像が祀られている。安永二(1773)年の銘がある。(写真02) また本堂の左に護摩堂があって、不動明王の左に、りっぱな役行者・神変大菩薩、前鬼、後鬼の木像が祀られている。 葛井寺の西に辛国神社があり、さらに南に仲哀天皇陵をはさんで、青龍山野中寺(高野山真言宗、大阪府羽曳野市野々上5丁目)がある。野中寺は「中ノ太子」とも呼ばれる。 |
| 東大阪市 |
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| 【恵日山光堂千手寺】…東大阪市東石切町3-3-16。(2000/06、2007/02) 別称、上之坊・光堂。 真言毘廬舎那宗大本山。千手観世音菩薩。 現在の護摩堂は不動明王を祀っているが、もとは開山堂で役行者を祀っていた。2度目に訪れたときには、茶色の役行者像が新しく庭に祀られていたが、めずらしい。着色された木像あるいは陶磁器であろうか。(写真03) 「今から千三百年程昔のこと、笠置山千手窟で修行していた役行者は、不思議な神光に導かれて生駒山を越えてこの地に到りました。岩上に草を敷き黙念する行者のまの当たりに千手観音が諸々の神祇を並び従えて姿を現わされました。そこでこの地を拓いてはじめて寺を建て、恵日山千手寺と題しました。ためにこの寺を俗に呼んで光堂と称し、また里の名を神並村と号するようになりました」(恵日山千手寺縁起) |
| 【鷲尾山興法寺】…東大阪市上石切町2-1533。(1998/12、2000/06、2007/02) 真言宗醍醐派。役行者の開基。十一面千手観世音菩薩。 護摩堂の本尊(鳥須瑟磨明王)の左の脇侍、大聖不動明王が祀られている厨子の中に、木像の役行者、前鬼、後鬼が祀られている。背後の画幅の写しは、醍醐寺の「役行者前後鬼・八大童子像」である。(写真04) |
| 【長尾の滝】…東大阪市山手町。(2007/03) 役行者が修行をしたという。 |
| 【長尾渓の役行者】…東大阪市山手町。(2007/03) 長尾の滝から5分ほど西に下ったところに、一願成就不動明王の隣に、立派な役行者の青銅像が祀られている。これらの尊像は、昭和7年(1932)に作られたものだとのこと。京仏師の松下朋琳の作。(写真05) |
| 【長尾山天龍院】…東大阪市山手町2054。(2000/06、2007/03) 金峯山修験本宗総本山金峯山寺(蔵王堂)大阪別院。 八大龍王尊、金剛蔵王大権現を本尊とする。 創建されて百年になるという。 金剛蔵王大権現を本尊とする堂内には、金剛蔵王大権現を中心にして、左に神変大菩薩、右に大聖不動明王が祀られている。厳しい顔をした神変大菩薩の木像は、昭和50(1975)年に、京仏師の松下朋琳によって制作されたとのこと。(写真06) |
| 【髪切山慈光寺】…東大阪市東豊浦町1823。(1995/04、2000/06、2007/02) 真言毘廬舎那宗。千手観世音菩薩。 役行者の開基。 「役行者が生駒山中で鬼を捕られ、髪毛を切って改心させたとの伝説から髪切山と号します。」(東大阪市の案内板) 「開山堂」(行者堂)には、役行者が祀られているという。 |
| 【唐櫃石】…東大阪市中石切町1。(2011/09) 石切小学校の北側の道路に面して、「大戸村役場跡」と「唐櫃石」の石碑があって、その後ろに大きな黒い岩「唐櫃石」がある。 芝水利組合によって、昭和四十二年に建立された唐櫃石の石碑には、「此の石は元辻子口の路傍にあり 昔役の行者がこの石上にて坐禅したと伝へられる 石切神社の神武帝蹴上げ石と千手寺の業平腰掛石と共に 古来より石切の三名石と云う」と刻まれている。 |
| 【岩瀧山往生院六萬寺】…東大阪市六万寺町1-22-36。(2007/02) 下六万寺交差点を東へ。役行者が、六萬寺の背後の山、岩瀧山で修行したといわれている。鎌倉時代には、葛城修験の行場として知られていたという(『諸山縁起』)。 |
| 【霊光院】…東大阪市上四条町23-23。(2022/05) 真言宗醍醐派。 奥之院に行者堂、行場などがあった。 |
| 【御厨行者堂】…東大阪市御厨4-6。(2010/11) 御厨行者堂は、「東大阪歴史の道」に沿った道(旧暗越奈良街道)沿い、御厨会館の右隣にある。西に向かうと法観寺そして天神社がある。 堂内には、立派な役行者の、彩色された丸彫りの木像が祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。(写真07) |
| 【八剣神社の道標】…東大阪市菱屋東2-11。(2011/10) 菱屋東の交差点を南に入ると、十字路の南東に八剣神社がある。十字路の北東の角と南西の角には、石柱の道標がある。この十字路は、暗越奈良街道と河内街道が交差している地点である。 八剣神社の塀に「暗越奈良街道と河内街道」についての東大阪市の説明板がある。 「この前の道は、『暗越奈良街道』です。生駒山頂の南側の暗峠(標高455m)を越え、大阪と奈良を最短距離でつなぐ道であり、8里8町(34km)を測り古代より続いてきた古道の1つです。……八剣神社の境内に移されている天保2年(1831年)の道標は、『おかげ』と刻まれており、伊勢・奈良への道標です。/ここのすぐ西側を南北に通る道が、『河内街道』です。……またこの道は、明治28年以降30年代にかけ大阪府が古道の屈曲部分の直線化と拡幅工事をしています。それより以前は200m程西側の道で、奈良街道と合流していました」。十字路の北西角の道標は、明治45年のもので、「すぐ石切瓢箪山奈良/左住道四条畷」と刻まれている。南西角の道標には、北面が「すぐ八尾/右大阪/左奈良」、東面が「すぐ大阪/右枚方/左八尾」、南面が「すぐ枚方住道/右奈良/左大阪」、西面が「右八尾/左枚方/すぐ奈良生駒」と刻まれている。 八剣神社は、ちょうど秋祭り(10月15、16日)で、地車が停まっていた。境内に入ったすぐ右に、石の道標3基があって、右の道標には「右鳴川山/千光寺/役行者/道」、中央の道標には「右瓢箪山(瓢箪の文字は絵柄)/左大坂」、左の道標には「右大坂/おかげ左り・・・/天保二卯二月菱屋東・・・」と刻まれている。 東大阪市の石造物2p8,71、近畿地方の歴史の道2p107 |
| 【三ノ瀬の役行者道標】…東大阪市足代南1。(2011/04) 近鉄布施駅の西南に、フラワーロード(本町通り商店街)がある。商店街を南に歩き、フラワーロードの南端からさらに少し細くなった道を進むと、道が左右に分岐する。そこに厄除け地蔵がある。かつてそこに「安政二年、右大峰山上道」と役行者像の刻まれた道標がああったという。今は道標はなく、「すぢかいはし」と刻まれた石柱が横たわっていた。 東大阪市 (2丁目) <俊徳街道・十三街道> 石道標(蒲鉾型) 高94㎝,幅28㎝,厚14㎝ 安政2(1855) 東大阪市の石造物1p46,55/大阪の街道と道標p95 移設?/下部若干埋没/左面が隣の石碑と近接 (正面像下)「右、大峯/山上、道」、(左面)「すぐ 十三峠」/正面上部を光背型に削り込み役行者倚像(杖)を細密に浮彫り |
| 【奈良県参照】生駒山 |
| 泉南市 |
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| 【一乗山金熊寺】…大阪府泉南市信達金熊寺。(2001/03) 如意輪観音。 四石山(384.4m)の麓の金熊寺、信達神社は役小角の開基。役行者が金峰と熊野の両神を勧請したので、この名が付いたという。行者堂があって、不動明王の左に、役行者の木像が祀られている。山中渓には、葛城第4経塚がある。 当山の開基は682年(天武天皇10年)、役行者が夢のお告げにより、土中より6寸の金銅像を得、自らも4寸の木像を刻し、3間4面の堂を建立して安置したのを始まるとする。 寺名は役行者が当寺の鎮守として金峯・熊野の両神を勧請し、信達神社に合祀したことに因むという。 その後、後鳥羽院(1183~98年)の熊野参詣の途上に金熊寺権現社に参拝があるなど、鎮護国家の宏大な堂塔であったと言われる。 鎌倉末期の正安元年(1299年)には永仁の徳政令の煽りで焼き討ちに遭い、諸堂が罹災したが、本尊と薬師堂は焼失から免れたという。1312年(応長2年)、1338年(歴応2年)との修復を重ね、元の形に近い形に戻った。 1585年(天正13年)豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭ったが、1654年(承応2年)信達村13ヶ村の人々の善意により再興し、現在に至っている。 1691年(元禄4年)の『寺社境内坪数御改帳』には鎮守社(現信達神社)、薬師堂、観音堂、地蔵堂、神主屋敷などを含め境内は4万7400坪余と記され、広大な敷地であったようである。金熊寺は多くの堂、塔頭を総称する一山であったが、現在は塔頭観音院のみが残り、金熊寺の寺跡を継いでいる。 本堂の前を少し上った所にある行者堂。当山の開祖役行者を祀る。 |
| 【信達神社】…大阪府泉南市信達金熊寺。(2001/03) 信達神社は金熊寺の北隣りに鎮座。 社伝によると、昔泉南樽井の海岸に神武天皇の神像が出現、奇瑞を表わしたので里人たちは樽井の 地に祀ったが、更に神意を得たため現在の地に社殿を建て遷座したと伝わる。 古くは金熊寺大権現宮と称し、金熊寺の鎮守社であった。これは682年(天武天皇10年)、役小角が金峯・熊野の両神を勧請し本殿に合祀したもので、当時の信達荘13ヶ村の産土神でもあった。 天正年間(1572~92年)織田信長、豊臣秀吉の根来攻めの兵火に遭い、社殿が焼失したが、1647年(正保4年)にこの地の豪族で金熊寺権現宮の神主であった矢野和泉守家次により再建され、1687年(貞享4年)岸和田藩から新田6反歩の寄進を受けている。 『泉南市史』によると、1826年(文政9年)当社祭礼をめぐり、金熊寺観音院と神主矢野佐倉大夫との間で争論があったが、これは当時岸和田藩内で社家・神官の間に寺院から独立しょうとする機運があったが、これがその事件を生んだと考えられている。 明治初年の神仏分離で当社は金熊寺から独立、信達神社となり現在に至っている。 |
| 【和歌山県参照】ボンデン山 |
| 四条畷市 |
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| 【岡山行者堂】…大阪府四条畷市岡山2。(2007/03) JR片町線(学研都市線)・忍ヶ丘駅の西方の小高い丘に忍ヶ岡古墳、忍陵神社がある。その北隣に岡山行者堂がある。 2メートルほどの石碑に行者堂と彫られていて、背面には「建立/此の行者堂/は以前は赤/山の頂上に、/建立されて/いましたが/當地に移転/したもので/あります/昭和参拾七年拾月吉日」と記されている。 石碑の左方には「大峯山三十三度」と記された石柱があって、「明治廿四年九月七日/打上/井上政七」とある。またその傍らには経塚がある。行者堂には役行者が祀られていて、毎月七日に護摩供が行われている。 |
| 【小野山正法寺】…大阪府四条畷市中野本町6。(2007/10) 浄土宗。阿弥陀如来。 境内に浮彫の役行者の石像が祀られている。その左に大峰山登拝の石碑がある。江戸時代のものらしい。 |
| 【上清滝の行者堂】…大阪府四条畷市大字清瀧。(2007/10) 四条畷市コミュニティバスの上清滝バス停に、清滝天満宮がある。道は不明瞭であるが、その背後の山腹の台地に役行者堂がある。天満宮の真後ろになるようだ。内部を見ることはできなかった。役行者の木像が祀られているという。 |
| 【逢阪の巨石】…大阪府四条畷市大字逢阪。(2004/05/22、2007/10) 四条畷市コミュニティバスの逢阪バス停に、逢阪の巨石があって、巨石の間に、役行者の浮き彫りの石像が祀られている。 |
| 交野市 |
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| 【かいがけ地蔵】…交野市大字寺。(2010/04/18) 交野市大字寺の住吉神社から傍示に至るかいがけ道は、修験の道、熊野街道でもあった。そのかいがけ道にかいがけ地蔵がある。 かいがけ地蔵の広場の手前右に、思いもかけなかった行者堂を見つけた。祠の中に、丸彫りの役行者の石像が祀られていた。 役行者像は大峯山上奉拝を記念して祀られたものであることが台座(文化十年二月)に記されている。台座には右から「文化十?年/大峯/奉造立役行者/山上/二月吉祥日」と記されていた。 役行者の石像は、右手に錫杖、左手に経巻を持つ倚像で、上品な様子をしている。 |
| 【普見山獅子窟寺】…大阪府交野市大字私市2387。(2000/06、2004/02) 真言宗高野山派。本尊は薬師如来坐像。 暗くて確認はできないが、本堂の本尊の右に木像の役行者倚像が祀られている。役小角が金剛山から来て薬師浄土を開創、行基が堂塔を建立し、空海が修法したとされている。 仁王門跡に建てられている石碑には『聖武天皇勅願 行基菩薩開創 役行者 弘法大師 修行之旧蹟』とある。 獅子窟寺の開基は役小角と伝えられる。寺伝によると奈良時代45代聖武天皇(在位:724~49年)の勅願により行基菩薩が堂塔を建てたといわれ、平安時代には弘法大師が獅子窟で修行したともいわれる。 鎌倉中期、亀山上皇は本尊の薬師如来仏に病気平癒を祈願し全快したので、荒廃していた堂宇を再建されたと伝わり、1305年(嘉元3年)上皇が崩御された時、その徳をしのんで供養宝塔が建てられた。 1615年(慶長20年)大坂夏の陣の折、獅子窟衆徒は大坂方に加勢すべく命じられたが、これに従わなかったため、大野治長の命で兵火を放たれ、当時全山12院があったが悉く焼失した。このとき本尊薬師仏は塔頭の吉祥院の法師に守られ、大和の長弓寺に避難し、無事であったという。その後、光影律師によって中興、再建されたが往時の規模の10分の1にも及ばなかったとのことであるが、現在でも広大な寺域からかっての隆盛が偲ばれる。本堂は再建された当時のものである。 |
| 【月ノ輪滝】…大阪府交野市大字私市。(2000/06、2000/10、2007/02) 獅子窟寺の行場だったといわれる。 |
| 【源氏ノ滝】…大阪府交野市大字倉治。(2000/06、2000/10、2002/02) 2000年の6月には気がつかなかった。10月に、滝の左下に役行者の石像が祀られていたのを確認。2002年2月に、河内磐船の無垢根亭で食事をしたとき、源氏の滝に来て、写真を撮る。(写真08) |
| 豊能郡 |
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| 【光明山法輪寺】…大阪府豊能郡豊能町川尻。(2006/05) 高野山真言宗。 山門をくぐった右に、茅葺きの観音堂がある。中央に十一面観世音菩薩、右に神変大菩薩・役行者、左に弘法大師が祀られているという。扉が閉まっていて、拝観することはできなかった。また観音堂の右の石灯籠には「大峯山・神変大菩薩・光明遍照」の銘が彫ってあった。 |
| 【牧の役行者】…大阪府豊能郡豊能町牧。(2003/01) 大阪府・京都府にまたがる鴻応山の麓。牧バス停から寺田に向かう車道、牧上バス停から少し先で、標識に従って、山裾を左に入る。杉の大木の下の石祠に、役行者の石像が祀られている。江戸時代のもの。笑った顔が珍しい。(写真09) 「牧 役の行者石像」 役行者(役小角)は飛鳥時代から奈良時代にかけて実在した修験道の開祖。7世紀前半に現在の奈良県御所市に生まれる。17歳の時に奈良の元興寺(がんごうじ)で学び、その後、葛城山、金剛山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峰山(きんぷせん)で学び修験道の基礎を築いた。牧の「役の行者像」は、牧村の行者講(奈良県吉野の金峰山にある蔵王権現に参拝する信者の団体)によって祀られたものである。方1メートルの両開きの石扉をもつ石室内にあり、像の高さは約44cmである。作は江戸時代と推定される。(「豊能町観光ボランティアガイドの会」のHP、2013/12) |
| 【剣尾山・行者山】…大阪府豊能郡能勢町山辺。(1997/02) 摂津、丹波の国境にある剣尾山の中腹に、行者山があり、行者堂がある。覗岩、胎内くぐりなど大峰山と同じ行場がある。 行者山役行者磨崖仏 大日岩から更に暫く登ると弥勒岩と呼ばれる、斜面から落ないことが不思議な程オーバーハングした巨岩が有る。オーバーハングの庇の下、岩屋には小さな石祠が有りやっぱり小さな弥勒菩薩が祀られて居るが問題外。壁面を探してもこの岩には全く磨崖の類は見つかりません。 行者堂の脇をすり抜けテラス状に成った鐘掛け岩の壁面に覆屋が掛けられ、その奥の壁面に「役行者」像が刻まれている。像高約1.2m、荒げた岩肌に浅いレリーフ、外光の届かない覆い屋の奥、顔の部分にスポットを当てて貰っての撮影。看板には、奈良時代、役行者が爪で自らの像を彫り刻んだと書かれている磨崖仏。 |
| 【剣尾山月峰寺】…大阪府豊能郡能勢町大里。(2003/02) 剣尾山南東麓にある。6年がかりになったが、深山に登った帰りに、やっと立ち寄ることができた。 きわめて痩身の役行者の石像が祀られている。明治20年3月に、作成されたものか。こった作りになっている。(写真10) |
| 泉南郡 |
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| 【泉南飯盛山】…大阪府泉南郡淡輪、深日。(2002/07) 般若ヶ岳。葛城二十八宿の第三の地。 山頂のすぐ南に千間寺(飯盛寺)跡がある。葛城第3経塚(石祠)には、般若経が納められている。 「今を去ること千二百年前に飯盛山に千間寺(通称飯盛寺)あり開基として役小角(エンノオズヌ)真言宗の巨刹で本尊は役小角の作大聖釈迦牟尼佛で天正五年二月織田信長の兵火に罹り焼失し鳥有に帰し本尊釈迦牟尼佛は附近の朝日谷に投ぜられ佛体は無事災禍を免れ数日後折良く村人達が池の辺を通りし時池の中から御光のきらめくのを救い出し村民相謀り由緒深い孝子金輪寺に鎮護し」たという(金輪寺の『縁起』)。 |
| 【札立山】…大阪府泉南郡岬町孝子、和歌山県和歌山市園部。(2002/10) 役行者の行場の一つであったといわれている。 |
| 【宝長山高仙寺】…大阪府泉南郡岬町孝子。(2002/07、2002/10) 孝子観音とも称される。 役行者の開基。葛城二十八宿の第三の地。 泉南飯盛山の南西山麓に位置する。 行者堂には役行者、前鬼、後鬼の丸彫りの彩色された木像が祀られている。また本堂の左手奥に、石祠があって役行者の丸彫りの石像が祀られている。(写真11) さらにその先に「役行者母公之墓」がある。 |
| 【普照山金輪寺】…大阪府泉南郡岬町孝子。(2007/03) 黄檗山万福寺の末寺。 元来、飯盛山の千間寺(通称飯盛寺)の本尊であった「釈迦佛像は役小角の多年辛苦快心の労作千古の秘佛として当寺の本尊として祀られ六十年目毎に御開帳」されている(金輪寺の『縁起』)。 |
| 【横手の八王子社】…大阪府泉南郡岬町多奈川東畑。(2007/03) 三の宿。 本来の八王子社は、八王子峠への登り口辺りにあったといわれている。その八王子社にあった石祠が移されて、現在は横手村の三輪明神にある。 |
| 【明鏡山慈眼院】…大阪府泉南郡岬町多奈川西畑の佐瀬川村。(2007/03) 二の宿。 本尊十一面観音木像は、役行者自作の秘仏だという。 |
| 【和歌山県参照】大福山 |
| 南河内郡 |
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| 【叡福寺】…大阪府南河内郡太子町太子2146。(2004/12) 磯長山聖霊院。真言系単立。釈迦如来? 「上ノ太子」。太子寺。聖徳太子御廟所。「中ノ太子」は野中寺、「下ノ太子」は大聖勝軍寺。 金堂の裏(北)に、丸彫りの役行者の石像が祀られている。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。上品で、静かな雰囲気を漂わせている。(写真12) |
| 【山田郷の役行者】…大阪府南河内郡太子町山田。(2004/12) 竹内街道歴史資料館の西方、街道脇の一段と高いところに、石窟があって、浮き彫りの役行者の石像が祀られていた。右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。 |
| 【岩屋峠】…大阪府南河内郡太子町山田、奈良県葛城市染野。(2004/12) 岩屋峠の大阪側に、役行者が修行した岩屋がある。 |
| 【鹿谷寺跡】…大阪府南河内郡太子町山田。(2004/12) 役行者が修行した岩屋がある。 |
| 【竹内峠】…大阪府南河内郡太子町山田。(1996/03、2000/06、2011/01) 「竹内峠」の西、「峠うぐいす茶屋」のすぐ東に、「河内国山田郷/役行者遺跡」があって、役行者を祀った石祠を立派な木造の建物が覆っている。 石祠には、「大坂三郷」「上町組山上講」の銘がある。1996年には祠の中を確認できなかったが、2000年に、車で當麻寺に行ったときに、役行者の丸彫りの石像が祀ってあるのを確認した。 右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像で、優しい顔立ちをしている。久しぶりに2011年に訪れた時には、整備されていて、石祠に祀られた観音菩薩の石像、「役行者御霊水」の石碑、「大峰山三十三度」の供養碑、宝篋印塔などもゆっくり見ることができた。(写真13) 「役行者御霊水」の石碑には、大坂上町山上講の銘があり、宝篋印塔には寛政二年(1790)の文字が認められた。ちなみに大坂上町は、玉造から旧暗越奈良街道につながる。 |
| 【平石峠】…奈良県葛城市竹内、大阪府南河内郡河南町大字平石の境。(1996/03、2004/12) 葛城第24経塚。小石祠に役行者の石像が祀ってある。(写真14) |
| 【岩橋山】…奈良県葛城市兵家、大阪府南河内郡河南町大字平石の境。(1996/03、2004/12) 名称は、岩橋山の頂から50mほど岩橋峠側へ下ったところから西にのびる尾根上に、野山(立石原)と呼ばれるコブがあり、その府県界尾根の東側にある「久米の岩橋」に由来する。 |
| 【久米の岩橋】…大阪府南河内郡河南町大字平石。(2004/12) 役行者と岩橋(葛城山) 「茅原で生まれた役行者は額に小角があった。三宝を信じ、毎夜五色の雲を呼び寄せ天外に飛び出て、大勢の仙客と共に遠く霊地に遊んだ。また岩窟に入って葛を着て、松を食い、清泉に浴して欲界の垢を洗った。孔雀明王の呪法を修行して、思う侭に魂を使っていた。遂に大和の葛城山から金峰山へ大きな長い橋を架け渡そうと計画し、近くの神々にその援助を命じた。葛城の一言主神は容貌が甚だ醜かったので、夜の役だけつとめたため橋を渡すことが出来なかった。行者は怒って一言主神を呪縛した。一言主神は怨みをもち藤原の宮の天皇に讒言した。文武天皇は直ちに勅を下して使いを遣って行者を捕らえさせた。行者は験力をもって怱然として空にのぼって飛び去り、容易に捕らえさせないので、その母を捕らえた。行者はやむを得ず、母を救うために姿を現し神妙に捕らえられ、伊豆の大島に遠流された。海上を走ること陸を行くようで、昼は島にいても夜は富士に登って修行し、一日も早く大和へ帰れるよう三年の間毎夜お祈りをした。大宝元年の正月に許されて大和に帰ったが、その後は仙人となって天に昇って大陸に渡った。 その後、道昭法師が、勅命をうけて、大唐に法を求めた時、新羅の山中で五百人の集まりに法華経を講じていると、その席に日本語の上手な人が来ていた。名を聞くと役の優婆塞だと答えた。さては名高い役行者であると驚いて高座を下りてその人をさがすと、何処かへ去って姿はなかったという話が『日本霊異記』に出ている。」 役行者が、葛城山の神々に命じ、岩橋山から大峰山へ通うための橋を架ける工事をさせたが、一言主神のサボタージュにあい失敗。未完成の橋として、その名残をとどめたものを言う。 ● 葛木の岩橋 南北、葛城郡、葛城山 葛城山に住んでいた役の行者は、藤の皮の着物を着て、松の葉を食って生活し、夜々、鬼神を使って水を汲ませたり、薪を拾わせて居た。ところが、此山から吉野金峰山に通ずる道がないので、鬼神に命じて岩橋を架けさせたが、葛木の一言主の神が、言付けを聴かなかったので、谷間へ縛りつけたと云う。(東蕗村) 又、この時、役の行者が印を結ぶと、自然に岩橋が南に向って架って行く。すると空から風の神が現われて、其仕事を妨げようとする。行者は一人の天女を呼出し、歌と舞とを奏させて、風の神を制しようとする。併し結局役の行者の法力は弱って、橋は成就しなかったともいう。北葛城郡磐城村岩橋は、其名残だという。(碓井祥平) |
| 【岩橋峠(伏越峠)】…奈良県葛城市兵家、大阪府南河内郡河南町大字平石の境。(1996/03) 役行者をまつる小祠がある。 |
| 【神下山高貴寺】…大阪府南河内郡河南町平石。(2004/12) 葛城第25経塚。救世如意輪観世音菩薩。 役行者の開基とも、弘法大師の修行所とも伝えられている。 金堂には本尊の五大明王のほか、脇侍として役行者、理源大師像が祀られているという。 駐車場手前右の道路脇に道標がある。 |
| 【龍池山弘川寺】…大阪府南河内郡河南町弘川43。(2000/07、2004/12) 真言宗醍醐派。 行基や弘法大師も訪れたという古寺。西行法師終焉の地。「天智天皇4年(665年)、役行者によって開創された葛城六坊の霊場である。」(『役行者集印巡り』)不動堂の不動明王の左に、役行者の木像が祀られている。彩色された役行者像は、右手に錫杖、左手に経巻を持った倚像である。(写真15) 西国四十九薬師霊場会『るり光』平成28年度第36号 弘川寺の沿革と唐獅子図 弘川寺 高志 慈海 弘川寺は、葛城山の西麓にあり、『弘川寺縁起記』によれば、天智天皇の四年(六六五)に役行者によって開創されたと伝えられる。天武天皇白鳳五年(六七七)の夏、天皇は当寺に請雨の祈願を命ぜられ、同八年(六八〇)の春行幸せられ勅願寺となった。白鳳時代にはすでに本堂が建立されていたようで、現在本堂が建っている場所からは白鳳時代の古瓦が発掘されている。天平九年(七三七)には行基が修行、宝亀年間(七七〇年代)には光意が修学した。弘仁三年(八一二)には嵯峨天皇の命により空海が中興し、真言密教の霊場となった。文治四年(一一八八)当寺の座主空寂は後鳥羽天皇ご病気の際、宮中に召され、病気平癒の祈願を修し、天皇は即日平癒された(「密宗年表」『大日本史料第四編の二』)。その功により奥の院「善成寺」を賜り、後鳥羽天皇筆と伝わる勅額が現存している。歌聖西行は、文治五年(一一八九)晩秋の頃に当寺に逗留し、翌文治六年(一一九〇)二月十六日七十三歳当寺で入寂した。南北朝時代には、正平七年(一三五二)三月賀名生行宮に光厳・光明・崇光の三上皇、直仁親王・尊胤法親王が遷座される際に当寺に立ち寄られている(『祇園執行日記』)。元弘二年(一三三二)楠木正成が弘川寺より東方二十町の陣屋山(標高五四一m)に弘川城(陣屋山城)を設けたため、しばしば戦場となり、正平十五年(一三六〇)畠山国情麾下の幕府軍が南朝方の弘川城主隅屋与一正高を攻め、寺に下りて奮戦した正高は境内の大桜(規桜)の下で白刃した(『河内名所鑑』・『河内名所図会』等)。室町時代には、何らかの造営工事が行われたことが弘川寺出土の鬼瓦片の刻銘(「弘川寺土瓦明徳三年(一三九二)壬申八月日造」)より知られる。さらに御影堂の木造弘法大師像には「弘川寺御影堂安置也」「長禄元年(一四五七)丁丑二月四日」の胎内銘があり、当時の寺の様子をうかがうことができる。十五世紀中頃より河内国の守護畠山氏が家督相続をめぐる争奪戦を繰り広げ、政長が弘川に布陣し(『新腰長禄寛正記』)、義就がこれを攻めて寛正四年(一四六三)四月十五日兵火により弘川・善成の二ヵ寺の堂塔が焼失した。慶長七年(一六〇二)の伊藤則長定書写(弘川寺蔵)によれば、文禄三年(一五九四)の検地の対象となっていることから、その頃までには概ね復興していたようである。慶長段階で境内は除地となっており、石高五斗の山地(寄進分)と十七石の田畑を領していた。江戸時代の弘川寺の寺観は享和元年(一八〇一)刊の『河内名所図会』によって知られる。弘川寺蔵『弘川寺山内図』には六ヶ寺の塔頭寺院が見られる。江戸中期の歌僧似雲は、享保十七年(一七三二)二月十六日西行の古墳を発見し、墳の周辺に供華の山桜を植え、八十一歳の生涯を西行の顕彰に尽くした。平成元年(一九八九)の西行八百年忌には西行記念館を建立し、西行墳奥の桜山に供華の桜を植樹した。/現在の本堂は、有栖川宮第七世韶仁親王の命により文政四年(一八二一)に桓武天皇を祀るために京都深草に建立された御所風の唐破風四間四面の建物であるが、当寺にご縁を頂いて檀信徒篤信者の尽力によって浄財が集められ、昭和三十二年(一九五七)に弘川寺本堂として解体移築し、焼失以後約五百年後に再建された。内陣と外陣の間に結界の敷居があり、移築前には四方四枚ずつ障子がはめられていた。障子の腰板の内側には従三位祝部成節筆唐獅子図が描かれており、「文久三年(一八六三)癸亥」と書かれている。本堂再建時に障子を別の場所に保存していたが、昭和六十一年(一九八六)に本坊内に新築した建物にはめて一般公開してきた。しかし約三十年の間に紫外線による劣化が進み、平成二十八年(二〇一六)今夏、障子から絵をはずして保存することとなった。今後、徐々に修復作業に取り組み、いずれ公開したいと考えている。 |
| 【奈良県参照】二上山雄岳 |
| 千早赤阪村 |
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| 【下東阪の役行者】…千早赤阪村下東阪。(2007/02) 金剛バス・千早小学校前バス停と東阪バス停の間。石灯籠と三つの石祠のあるところ。 右の石祠に役行者の石像が祀られていた。 |
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| (写真01)役小角錫杖加持水の役行者 (写真02)葛井寺護摩壇の役行者 (写真03)千手寺の役行者 (写真04)興法寺護摩堂の役行者、前鬼、後鬼 (写真05)長尾渓の役行者 (写真06)長尾山天龍院の役行者 (写真07)御厨行者堂の役行者 (写真08)源氏ノ滝の役行者 (写真09)牧の役行者 (写真10)剣尾山月峰寺の役行者 (写真11)宝長山高仙寺の役行者 (写真12)叡福寺の役行者 (写真13)竹内峠の役行者 (写真14)平石峠の役行者 (写真15)弘川寺不動堂の役行者 |













